2019年09月09日

メタフィクション(「ドラゴンクエスト/ユアストーリー」評8)

「はてしない物語」も、
映画版「ドラゴンクエスト/ユアストーリー」も、
ジャンルはファンタジーではない。
メタフィクションというジャンルだと言って良い。

この二本をファンタジーに分類する奴はばかだ。
内容をよく理解せず、
剣や魔法や怪物が出てくるガワだけでジャンルを理解している。

以下ネタバレで比較論をしてみよう。


昔、
劇中劇は本編よりしょぼくなる、
という趣旨の記事を書いた。

本編のコンフリクトやテーマの強さに比べて、
劇中劇はどうしてもそれより弱くなりがちだ。
例外は「ガラスの仮面」くらいだろうか。
その理由としては、
本編が劇中劇よりも大事だからで、
主客が逆転しないからである。

「はてしない物語」の劇中劇は、
ファンタージェン世界そのものだ。

虚無の侵食を受け、崩壊の危機を迎えたファンタージェンを、
アトレイユ少年が救いに行く冒険譚だ。
アトレイユを追う闇の人狼が、時計がわりになる。
ついに邂逅した人狼から、
アトレイユはファンタージェン世界の秘密を知る。
ファンタージェンから虚無に飛び込むと、
人間世界に行くことが可能になるというのだ。
人間世界ではかれらは「いつわり」という名になり、脳の中に住むのだと。
「本から得たフィクションとは、いつわりだろうか?」
というセンタークエスチョンである。

本編はどうか。

それを読んでいるバスチアン少年が、
本から呼ばれ、本の世界に入ってしまい、
そこで冒険するかと思いきや、
望みを一つずつ叶える全能感を得て、
人間であった記憶を一つずつ失い、
ついには帝王に即位しようとし、
アトレイユに妨害されて地に堕ちる。
望みを全てなくしたときに、
自分の名前と引き換えに最後に出てきたものは、
「誰かに愛を与えたい」ということであった。

これは終盤、アイゥオーラおばさんに、
母親がわりに無限の愛を得たことで、はじめて思いつくこと。
自分の渇きを全て癒したら、次は他人になる。
母の死によって失われたもの、
母の死によって凍ってしまった父の心に、
このときはじめて気づき、
バスチアンは本気で人間界に帰りたいと思う仕掛けだ。

劇中劇のファンタジー世界は、
この本編よりたいしたことがない。
つまりファンタージェン世界は、
本編への前振りに過ぎない。


「はてしない物語」はメタフィクションである。

すなわち、
「フィクションを読むことのフィクション劇」だ。
「フィクションの中に入り、出てくることとはどういうことか」
を描いている。

そこで描かれる本編とは、
全能感の解放、悪魔の囁きによる幼児的全能感の解放、
それがゆえに追い込まれること、
愛を得てそれを誰かに与えたいと思うこと、
すなわち「成長」である。

その与えるものが「命の水」となっているところに、
私たちは命の水を流すのである。


「はてしない物語」のテーマはだから、
「フィクションを読むことで、人は成長する。
フィクションと現実の間に共通点を見つけることで入り、
フィクションの中に現実と共通点を見つけたところで出てくる。
それはいつわりではなく、ほんとうのことだ」
だと書くことが出来よう。

それを描くために、
ファンタジー世界を利用している(モチーフ)に過ぎない。

この構造であれば、
探偵小説だろうが政治小説だろうがスポーツ小説だろうが、
なんでもよかったはずだ。
もっとも、「おはなし」の代表としては、
おとぎ話的なファンタジーがもっとも相性がいい、
というに過ぎない。


「はてしない物語」は、
モチーフであるファンタジー世界がガワで、
メタフィクションが中身である、
そのような二重構造をしている。

ガワだけ拾って映画化した「ネバーエンディングストーリー」を、
原作者が怒るのも無理もない。
しかし短い尺のなかで、
「バスチアン少年の成長を、
フィクションが現実に侵食するという逆のアイデアを持って、
一発で示したのだ」というビジュアル面からの擁護は可能である。
(深さじゃ叶わないけどね)



で、本題のドラクエ映画だ。

メタフィクション映画である。

VRを被ったサラリーマンが、
ドラクエ世界を冒険する。
トラブルが起こるが、
システムに用意されたバグパッチで回復。
おしまい。

この構造から暗示されるテーマはなにか?

「黙ってゲームで冒険してろ家畜」だろう。

だからファンは激怒する。
主人公のサラリーマンは、なんら冒険をしていない。
VR内では冒険しているが、
そのフィクションの成果を現実世界に還元していない。
それどころか、
「まだVR冒険を永久に続ける」で終わる。

つまり、かれは現実においては何もしていない。
0だ。

「はてしない物語」における、
バスチアンの変容と反省と最後に見出したものと、
現実での行動に比して、0である。


これが天と地である。


山崎貴は、「はてしない物語」を読んでいないだろう。
読んでいたら、
こんな何にもなっていないクソシナリオを、
恥ずかしくて世に出せないだろう。
制作サイドのどこにも、「はてしない物語」を読んだ人がいないかもしれない。
いれば忠告するだろうから。これはクソオブクソだぞと。

ドラクエは、フィクションを期待された映画である。
にも関わらずメタフィクション映画になってしまい、
その劇中劇でない本編が10分にも満たない付け足しで、
何も描いていない0という、
期待を100000%裏切った映画だ。

そして、劇中劇のほうが本編より面白いという、主客逆転が起こっているから、
余計につまらない。

もしメタフィクション映画を本気でやるならば、
「はてしない物語」なみに完成度を上げなければ、
ドラゴンクエストというゲームが日本に築いた地位に、
匹敵しないと思う。


ここを読む人は、
自分で物語を書く/書きたい人だろう。

フィクションとはどういうことか?
どういうものであるべきか?

「はてしない物語」とドラクエ映画の、
100点と0点を見比べて、
自分は何点の場所にいるのか評価したまえ。

この評価軸で、フィクションとしての質を測ることが出来る。
posted by おおおかとしひこ at 14:18| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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