感動して泣くことは分る。
それ以外でも泣くことはある。
可愛そうで泣いたりする。
泣くのは結果であって、原因は沢山あるということだ。
泣ける、といった場合、
悲劇的で泣く場合(対象に悲劇がある)と、
身につまされて泣く場合(観客側に悲劇がある)と、
感動で泣く場合があるように思う。
悲劇的に泣く場合と、感動は分けて考えたほうがいいと思う。
一時、「泣ける映画」なんてことがよく言われたが、
感動して泣くというよりは、
不治の病ものとかで、悲劇的にただするだけで、
愛しているとかで泣かせるパターンが多かったように思う。
それは感動か、って話だ。
泣きさえすれば感動とは限らない、ってことだ。
人が死ねばただ泣く人だっているけど、
それは感動の種類とはやや違う。
じゃあ、感動で泣くってどういうことだろう。
僕は、生まれ変わることと定義したい。
主人公がなんらかの欠点を抱えていて、
それを克服することが、
偉大なることを成すことになっているという構造で、
感動は保証されるのではないかと考えている。
その欠点は誰もが抱える欠点だ。
それを克服するのは、一般的なやり方とは限らない。
主人公特有の文脈でそれはなされるからだ。
しかしそこにリアリティがなければならない。
ほんとうにそれを克服するようなリアリティが。
そのことによって主人公が克服すると、
「自分がまるでそうしたかのような感覚を覚える」
と、感動するのではないか。
ここではよく議論する、感情移入によってである。
物語は疑似体験であるという。
冒険の疑似体験、ピンチを切り抜ける疑似体験、
ワクワクする世界の疑似体験、
などなどがある。
しかしそれだけでは、単なるアトラクション、
VRと違わないではないか。
映画がVRと違うのは、
人生の疑似体験であるところであり、
「欠点の克服」の疑似体験であるところだと、
僕は考えている。
誰しもが人生がうまくいっているわけではない。
だから、うまくいっていない主人公に肩入れする。
その主人公が自分の欠点を物語の中で、
自然に、リアルに、そしてダイナミックに克服すると、
まるで自分の欠点も克服したような気になり、
自分の人生もうまくいくような感覚になる。
それが、「欠点の克服の疑似体験」だと思う。
こうして、
以前の自分は消え去り、今いる新しい自分に生まれ変わった、
という体験が、感動とよばれるのではないか、
と僕は考えている。
見たことのない映像とか、
新しいカメラワークとか、
そんなガワは感動ではない。
4Kとか8Kとか言っているやつは、
映画がなぜ感動するか、理屈を知らない馬鹿だ。
遊園地で涙を流していればいいんだ。
泣ける映画には、二種類ある。
可愛そうで同情して泣くやつ。
(「かわいそうなゾウ」とかですかね)
もうひとつは、主人公が生まれ変わるものを見て、
まるで自分が生まれ変わるような気持ちになるもの。
人は、生まれるときに泣きながら生まれ、
死ぬときに周りを泣かせるという。
生まれるときに泣くほうが、
人生に希望をもたらすと、僕は信じる。
2019年09月12日
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