2019年09月12日

泣くと感動は違うのか

感動して泣くことは分る。
それ以外でも泣くことはある。
可愛そうで泣いたりする。


泣くのは結果であって、原因は沢山あるということだ。
泣ける、といった場合、
悲劇的で泣く場合(対象に悲劇がある)と、
身につまされて泣く場合(観客側に悲劇がある)と、
感動で泣く場合があるように思う。

悲劇的に泣く場合と、感動は分けて考えたほうがいいと思う。
一時、「泣ける映画」なんてことがよく言われたが、
感動して泣くというよりは、
不治の病ものとかで、悲劇的にただするだけで、
愛しているとかで泣かせるパターンが多かったように思う。

それは感動か、って話だ。
泣きさえすれば感動とは限らない、ってことだ。
人が死ねばただ泣く人だっているけど、
それは感動の種類とはやや違う。

じゃあ、感動で泣くってどういうことだろう。

僕は、生まれ変わることと定義したい。
主人公がなんらかの欠点を抱えていて、
それを克服することが、
偉大なることを成すことになっているという構造で、
感動は保証されるのではないかと考えている。

その欠点は誰もが抱える欠点だ。
それを克服するのは、一般的なやり方とは限らない。
主人公特有の文脈でそれはなされるからだ。
しかしそこにリアリティがなければならない。
ほんとうにそれを克服するようなリアリティが。
そのことによって主人公が克服すると、
「自分がまるでそうしたかのような感覚を覚える」
と、感動するのではないか。
ここではよく議論する、感情移入によってである。

物語は疑似体験であるという。
冒険の疑似体験、ピンチを切り抜ける疑似体験、
ワクワクする世界の疑似体験、
などなどがある。
しかしそれだけでは、単なるアトラクション、
VRと違わないではないか。
映画がVRと違うのは、
人生の疑似体験であるところであり、
「欠点の克服」の疑似体験であるところだと、
僕は考えている。

誰しもが人生がうまくいっているわけではない。
だから、うまくいっていない主人公に肩入れする。
その主人公が自分の欠点を物語の中で、
自然に、リアルに、そしてダイナミックに克服すると、
まるで自分の欠点も克服したような気になり、
自分の人生もうまくいくような感覚になる。
それが、「欠点の克服の疑似体験」だと思う。

こうして、
以前の自分は消え去り、今いる新しい自分に生まれ変わった、
という体験が、感動とよばれるのではないか、
と僕は考えている。

見たことのない映像とか、
新しいカメラワークとか、
そんなガワは感動ではない。
4Kとか8Kとか言っているやつは、
映画がなぜ感動するか、理屈を知らない馬鹿だ。
遊園地で涙を流していればいいんだ。


泣ける映画には、二種類ある。
可愛そうで同情して泣くやつ。
(「かわいそうなゾウ」とかですかね)
もうひとつは、主人公が生まれ変わるものを見て、
まるで自分が生まれ変わるような気持ちになるもの。

人は、生まれるときに泣きながら生まれ、
死ぬときに周りを泣かせるという。

生まれるときに泣くほうが、
人生に希望をもたらすと、僕は信じる。
posted by おおおかとしひこ at 08:04| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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