2019年09月12日

ムービーとスチルの違い

http://jin115.com/archives/52269294.html
こういうパワポを作る人がいるよね。
霞が関言語だという説もある。


スライドショーと、一枚資料との違いを、
まったく理解していないから、
こういうことになるのだろう。

スライドショーはムービーだ。
一枚一枚がどんどん出て、
展開していくものだ。
一枚あたりの情報量は少ない。
というか、少なくしている。
ひとつに絞ることで注目点をつくり、
「その注目が、次のスライドでどう変わっていくか」
で誘導していく。
点を次の点にどうつなぎ、どんどんどうつないでいくか、
という「繋ぎのリレー」が、スライドショーである。

だから、一枚あたりの情報量は、
極限まで減らされている。
注目点をつくり、そこの変化を示すためである。
せいぜい、付帯状況と、注目点の、
ふたつの構造があるだけだろう。

情報量を減らすとともに、
よく使われるのは、
対立と相似である。
ふたつの要素が、対立させたり、相似形であるようにすることで、
まるでひとつの要素であるように、
情報量を減らせるわけだ。
敵とのコンフリクトや仲間とのやりとりがあることは、
対立と相似を作っているということだ。

いったん流れ出したものは、
流れを経て、終着点に来なくてはならない。
それが結論である。
結論のないものは、
流れの意味がない。
これまで流れてきたことが、なんでもなくなってしまうからだ。
結論とはすなわち、
「このゴールのためにこれまでやってきたのだ」
ということであり、
それがないなら、流れなど最初からなくても良かったのだ。

一方、霞が関パワポは、その真逆である。
一枚あたりの情報量が多すぎて、
どこに注目していいかわからない。
次の一枚もないから、
流れが存在しない。
そして、それゆえに、結論が存在しない。

対立や相似はある。
しかし、それがなんだというのだ。
今ある状況を絵に描いただけで、
説明でしかない。
新しい結論へ導こうとする意志はない。

霞が関パワポを作る動機は、
「突っ込まれない完璧な資料」でしかない。
つまりは、結論を出そうなどと露ほども思っていなくて、
あらゆる状況に目端が利いたことの証拠でしかないということだ。

ひとつの状況から、結論を導くのがムービー。
ひとつの状況をそのままに放置するのがスチル。

その差であるといえる。

どっちが分り易いとか、そういう問題ではない。
目的が違うということだ。

あなたは、ムービーを書くつもりで、
ただのスチルを書いてやしないか。
posted by おおおかとしひこ at 16:29| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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