前記事の続き。
あらゆる要素を、
◯(誰もが分かりやすいが、7しか心に刺さらないもの)と、
★(一部の人にしか刺さらないが、その人には10刺さる)
にわけて考えたとして、
それらのバランス感覚があるとよい。
たとえば。
設定が★だが、展開は◯。
設定は◯だが、展開が★で、結論は◯。
設定も展開も◯なのに、結論は★。
キャラが★だが、世界は◯。
主人公は◯だが、サブキャラたちは★。
主人公だけ★で、あとは◯。
ひとりのキャラの中に、◯の部分も★の部分もある。
言葉は◯だが意味は★、あるいは言葉は★だが意味は◯。
キャラは★だが行動は◯。
などのような。
全部★なのは、本当に一部の人にしか刺さらないが、
刺さりまくる人にとっては最高で、
そういうのは同人誌などと呼ばれる。
地方の宗教にもそういうものが多く、
太客さえいれば発展する。
神と信者のようにもなるだろう。
とても特別なスペシャルだが、ニッチでしかない。
全部◯なのは、まあわかるけど癖がなさすぎて、
誰にとってもそこそこでしかない。
トヨタ車とかね(最近のトヨタは攻めてるやつもあるけど)。
「国民的」ではない。
実のところ「大衆的」だろう。
大衆居酒屋は、無難なメニューばかりのそこそこのものしか置いてなくて、
キャラの立ったものは置いてない。
安いけど特別じゃない。
なにかのバランスを取らなければならない。
そしてそれをどのようにするべきかは、
作者のバランス感覚としか言いようがない。
作者は尖まくり、
編集者がそれではいかんとバランスを取っていたのは、
はるか昔のことで、
今は作者がバランスの目端が効かないと、
生き残っていけないかもしれない。
(あるいは編集全体が、
尖った作者をたくさん集めてバランスを取っている場合もあり、
それは「今来ている面白い雑誌」と呼ばれる。
雑誌が元気がなくなったのは、
このバランス感覚の喪失だと僕は思っている。
尖りが丸くなったら、雑誌は終わりだ)
また、どういうことが★であり、
どういうことが◯なのかも、
作者のバランス感覚だと思う。
自分では普通だろと思っていたら誰もやらないことだったり、
必死にみんなと同じになろうとしたら孤立していた、
なんてこともあるだろう。
その微妙な狂い自体も作者の個性である可能性がある。
(荒木飛呂彦とか、永野護とか、岡本太郎とか)
これらは感覚の問題だ。
これは★、これは◯などと定義できるものではない。
なので、
「あなたが思う自分の作品の、◯と★のバランス」
を意図的に変える練習は役にたつよ、
というアドバイスに終わるとしよう。
いつも7:3を意識していたとしたら、4:6にしてみるとか、
Aは◯、Bは★といつも決まっている感覚を逆にしてみるとか、
★も◯もないところに、あえてそういうのを持ち込んでみるとか(分化)、
★も◯もなしにしてしまうとか(統合)、
そうしたことをやってみると、
自分の感覚の自覚や矯正や、あえての崩しの感覚や、
マンネリ打破や新しい作風の構築に、
役にたつかもしれない。
王道と覇道(奇道)、
温故と革新などという対義語では捉えきれない、
なにかの感覚をつかめるかもしれない。
2019年09月14日
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