2019年09月15日

欠点の改修が、長所を削ぐ時

欠点ばかり直そうとしていると、
結局何にもならなくなることはよくある。

欠点は長所と表裏一体のときがあり、
欠点を覆い隠すと、
長所の伸びがなくなることも多い。


「直す」という意識でリライトをするとき、
欠点ばかりチェックしがちである。

減点されている部分を0にしたら、
総合点が上がるという考え方はわからなくもない。

しかし、こと物語においてはそうでないことが多い。
なぜなら、物語とは構造だからだ。


建物にたとえよう。
欠陥住宅だとしよう。

水漏れがある。
そこを直せば減点が0になる気がする。
しかしよくよく調べると、
沼地の上に立っていて、
湿気そのものですぐ水回りがダメになる構造だとする。
ということは、この欠点を治すには、
根本的に立地を変えるか、構造を変えなければならない。

欠点を調べていくと、
構造的な欠陥にそのうちたどり着く。
根本的にやり直さないといけなくなる。
つまり、初手の構造設計が欠点の原因だ。
初期の構造設計段階でそれを気づけなかったのが、
根本の原因である。

そして、その根本的に作り直したものが、
以前のものを上回る保証はない。

なぜなら、結局は二つ作っているのと同じだからだ。
前回ダメだったら、今回もダメかもしれない。


さて。

全く逆から見てみる。
長所を伸ばす方向でのリライトだ。

これがなかなかに難しい。
なぜなら「自分の長所」はとても認識しづらいからである。

リライトをするときにしばらくは時間をあけろ
(三週間以上を推奨)、というのは、
「自分の作品」という意識を消すためだ。
自分の肉体の一部という感覚から、
誰か他の人の肉体の一部のようになるまで、
時間を開けるとよい。

誰か他の人のやったものなら、
「ここは褒めるべきところである」
「ここまでは到達している」
ということを正確に褒められる可能性がある。
(それも出来ないなら、評論家でもしばらくやってみなさい。
個人的好みと、客観的評価を分ける目を養うこと。
斜めに傾いている家を「まっすぐだ」と判断したら、
それ以降は全部間違いだ)

つぎに、
「その長所をさらに強化するには、どうすればいいか?」
を考えてみよう。

家の例に戻る。
眺望は良いとしよう。

だとしたら、屋上を開放的に改造するとか、
窓を大きなものにリフォームするとか、
そういった方向性で、
長所を伸ばす改造を考えるのだ。

もちろん、何かに似ている改造はつまらない。
オリジナルをよりオリジナルにしていく方向性が良い。
つまり、鋭い部分をより鋭く、大きく、強くする方向性である。

もしこれが突き抜ければ、
水漏れが多少あっても「ヨシ!」になってしまう。
人の評価とはそういうものである。

あなたが人を好きなる時を考えよう。
長所を好きになり、欠点は目を瞑るはずだ。
「欠点がないところが好き」ではないはずだ。



今、未曾有の「表現への規制」の時代になっている。
問題のありそうな箇所は徹底的に削り、
丸くすることしか考えていない。
僕は昭和やバブルで育ったから、
表現とは自由にのびのびやるものだというのがベースにあるが、
今の時代に育った人は、
「表現とは欠点を覆い隠すことだ」などと勘違いしている可能性がある。

だから、
「ましにはなるが、良くならない」のだと思う。


今の時代はそのうちまた別の時代になる。
20年すれば変わるよ。僕はそうだった。

そのときに、
「ましにしかならない実力」と、
「良くする実力」の、どっちが大事かと言うこと。

芸術は、なるべく遠くに、多くの人を連れて行くことだと、
僕は考える。

今の時代は、多くの人を1ミリ隣に連れて行くことばかりで、
なんだか面白くない。



欠点を改修した。
しかし長所が微妙なので、
何にもならなかった。

そうなる位なら、
欠点は致命的にならない程度に改造して、
長所を伸ばす方向でリライトしよう。

それはとても簡単で、
「もっとこうなるといいのに」
と思うことだ。

「もっと欠点がなくなるといいのに」とは人は思わない。
「もっと長所が爆発的であればいいのに」と思うのだ。


そしてその長所を損なわないように、
はじめて欠点を改修すればいい。
構造上長所に影響が出る改修は、
もはややる気が起こらないだろう。

こうして、間違ったリライトを防ぐことができる。
posted by おおおかとしひこ at 12:53| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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