ときどき囚われる。
これでいいのかと。
この頻度は、作者のほうが、観客より多いということに気づこう。
物語とは勢いである。
流れがいったん出来上がると、
それに乗っかって進むしかない。
ときどき、それが不安になることがある。
「これでいいのだろうか?」と。
「これを考慮にいれるべきではなかったか?」とか、
「試しにこっちの可能性を潰しておくと安心なのではないか?」とか、
「色々考えたら、何もしないほうがいいのでは?」とか、
そうしたことをついつい考えてしまう。
物語とは架空の人生のことだから、
人生についても不安になることについて、
作者が同様のことを考えてしまうのは、
ある種当然と言えよう。
しかし物語には、勢いがあるということを忘れてはならない。
観客の感じている勢いと、
作者の考えている勢いに、ずれがあるということを知ろう。
観客はだいたい400字原稿用紙を1分で見る。
しかし作者が400字を書くのは、1分では不可能だ。
僕の速い手書きでも5分かかる。
最高に速い(漢字変換が全部一発でいく程度)薙刀式でも3分かかる。
この時間差があるということを知ろう。
つまり、作者の歩みのほうが、観客より遅い。
だから観客にとっては勢いで進めるべきシーンでも、
作者にとっては「考えてしまう時間」が生まれやすくなってしまう。
だから作者は色んな心配をしてしまい、
こうであるべきか、この可能性も潰しておこう、
などと考えてしまい、
勢いを失ってしまうのだ。
これを防止するには、
「観客が受け取る時間感覚」で、
原稿を読むことが大事である。
「声に出して読む」ということは、わりと重要だ。
自分が書いている速度以上の速度で、
作品の時間が進んでいることに気づくことである。
こんな速度でそんな色々考えられるはずがないから、
綿密に考えすぎてもダメなのだ、
という塩梅を知ることはとても大事だ。
小説や漫画では、この事情は違うと考えられる。
いくらでも時間は止められるし、逆に速読も可能だから。
映画というジャンルは、
フィルムの走行速度は決まっている。
芝居の一秒は変わらない。
(だからスローモーションやタイムラプスは特別な表現になる)
そしておおむね、原稿用紙一枚が芝居の一分に相当することが、
長い経験からわかっている。
(そのシナリオのフォーマットについては、
過去記事、「シナリオのフォーマット」を参照)
一枚だけだと誤差があるけど、
百分とか集めれば大体合っている計算になる。
その速度で書けない以上、
「余計なことを心配して考えてしまう老婆心」は、
作者のほうが多いということになってしまう。
勿論考えが足りていないのは論外だが、
考えすぎてもろくなことがないということだ。
フィルム走行時間の一分に、
一時間相当の考えが入っていたら、
観客は混乱するだろう。
そんなには、一瞬で考えられないわけだ。
その感覚を作ることが大事だと思う。
たとえば、
説明をみじかくしようとして、
情報量の多いことを畳みかけて、
見かけの文字数だけは短いが、情報量が多いままにしてしまうことは、
このフィルム走行速度を考えていない、
駄目なシナリオだということだ。
その情報量の説明をきちんとするには、
相手が分かるだけの時間をかける必要があるのに。
(ついでに、さらに上手なのは、
登場人物が気づくより一瞬先に観客が、
「そうか、わかったぞ!」となるような、
絶妙な遅れが良い)
僕がずっと「書く速度」にこだわっているのは、
究極的には、観客のスピードで書きたいからかも知れない。
音声入力が有効かと思われるが、
どうしたって言い淀むし、
考えながらだと遅くなるしで、
じゃあ、確実な手書きを一番信用しているわけだけど。
作者の思惑よりも、
観客はずっとスピード感があるまま、
作品を見ている。
この差を体感で知っておくことで、
余計な心配事は捨てることが可能だ。
(もちろん、綿密な思考で先回りしたり仕掛けを考えることはやぶさかではない)
誰も映画を止めて見ない。
ショウマストゴーオンの状態で、
脚本を考えなければならない。
字が静止しているから、静止的に考えてしまう。
字や意味は動いているのだぞ。
音符と同じだ。
2019年09月18日
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