2019年09月20日

感情移入とは、「情が湧く」こと

好きになるとか、共感するとか、
まるで自分のように一体化するのは、
最後の段階だと思う。

そうじゃなくて、仲間のような情のわきかたが、
感情移入だと理解するといい。


つまり、
好きにならなくていい。
共感の必要もない。
自分の分身である必要もない。

それは間違いだと散々書いてきたので繰り返さない。

好きでもないし、
共感しない、
赤の他人だが、
ほって置けないし、
頑張りを応援したい、
というキャラクターでよいのだ。

ブサイクだろうが、
好ましい性格でもないし、
めちゃくちゃしやがるが、
困ったこの状態をなんとか打破しようとしている頑張りに対して、
「わかる」「それは無理もない事情だ」
「むしろがんばれ」
となっていくことが、
感情移入の正体だ。

中国人観光客は、
マナーのない人も多く、
厚かましく、ビジュアルも好きではないが、
わざわざ遠い国まで家族で来て、はしゃいでいるのを見れば、
まあむげにすることもないよね、
という情のわきかたに近いかもしれない。


好きになってもらおうとしたり、
共感してもらおうとすると、
どうしても媚が入る。

自分が猛烈に好きだったり共感したりして、
まるで自分の分身のようになってしまうと、
可愛くなりすぎて贔屓してしまう
(メアリースー)。

その評価軸でないところで、
感情移入という勝負をしなければならない。


その上に、
好きなビジュアルや共感できるキャラ設定や、
好きな性格などの、
ガワを被せていくのだ。


いわゆるキャラ設定は、
あくまで皮一枚のガワの設定だけしていて、
中身をなんにも作っていないという僕の批判は、
こういうことなのだ。
「中身はあるぞ、人生観とか」ということではない。
「ストーリーを進めるための中身」の話。

それは一にも二にも目的とそれに対する感情移入、
つまり「その事情ならそれもやむなし」
という情のわきかたなのである。

つまり、事情と目的が同じなら、
どんな皮を被ろうが中身は同じなのだ。

厚かましい中国人だろうが、
マナーの教育の高い静かな日本人だろうが、
「家族で遠い国に来ていて、一生の思い出にしたい、
親は二度とここに来れないと思っている」
などという事情があれば、
同じ情が湧く。

それが中身である。

そのベクトルが発生しないから、
いわゆるキャラ設定には、まるで意味がない。
あるいは、皮と中身を混同しているから、
いつまでも出落ちの話しか書けないのだ。


ストーリー創作とは中身を作ることであり、
ガワを作ることではない。
ここがわからないと、
いつまでたっても、
「ガワをたくさん作って、
その時はワクワクして楽しかったのに、
ストーリーを書き始めると一歩も進まない」
から抜け出ることは出来ない。

あなたに必要なのは、ジオラマのような箱庭を作ることではなく、
目的の一覧表である。


そのうえで、
情が湧くような事情を創作すればよいのだ。



好きとか共感とかは、ほとんどがガワだ。
性格も人生観もガワだ。
(行動様式に影響はあるから、ストーリーを左右する要素ではある)

情が湧き、感情移入するのは、
事情と目的である。
posted by おおおかとしひこ at 11:08| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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