2019年09月27日

第一稿の精度

最終稿の完成度を100だとすると、
第一稿の完成度なんて、30いけばいい方じゃないか?


第一稿を最後まで書くことは、
とかく難しい。

たとえるなら、
サラリーマンがちゃんと会社に行って仕事をする、
一年間くらいのストレスに相当する。

最後まで書ける人は稀だ。
それだけ専業なら可能だろうけれど、
たいていは仕事をしながら書く人だ。

(だから学生の人は、
暇なうちにたくさん書くんだ!
社会人は土日のどっちかしか専業の日がない!
一日は完全オフをつくりたいからね!
つまり1/7の速度しかない!
平日会社前か終わりに書いてたら、
ちょっとは速度が上がるけど、かなりしんどいぞ!)


最後まで書く労力がこんなに大変なのに、
出来上がった第一稿を見ると、
恐ろしく完成度が低いことに、
絶望した経験があるだろう。

(ここを読んでいる人が、
どれくらい最後まで書けたことがあるか知らないので、
これがどれくらい「あるある」なのか想像できないが)

あの労力はなんだったんだ。
そこまでやったのに、
俺にはこんな才能しかないのか。
こんなの発表できるわけないじゃないか。
みんなに笑われ、こんな程度かと指さされるだろう。
あるいは無言の無視かだ。
これは恐ろしい。


しかし恐れることはない。
第一稿の完成度なんて、
所詮は10とか20とか30だ。
それを知っていれば、
闘いはこれからだと落ち着ける。


今毎日、手書きで書いた第一稿13万字くらいを、
コツコツとタイピングで清書している。
薙刀式なら60分から90分くらいで、
6000字から8000字程度書けるので、
作業的にはとても重宝する。
平日仕事前か終わりに一時間程度やり、
土日にガツっとやればわりと進む。

で、これがちょうどよく、
「第一稿の苦しみを忘れた状態での、
第一読」になっていて、
一日作業単位、
つまり5000字から8000字単位で、
批評と改善点メモを書けるのだ。

大きな節目の終わりには、
もっと大きなブロック単位での反省が出来るので、
これまた数枚のメモを書くことにしている。
部分の改善点ではなく、
全体の改善点に気づくこともあるわけだ。

たとえば今日気づいたことは、
「敵の特徴に主人公と同じところがあるのだが、
敵はそれをそのままに放置し、
主人公はそれを克服することで、
対比を示せるぞ」だ。

「アメリカと日本は違う」とただ言うよりも、
「アメリカ人と日本人は、こんなに似てるところがある。
同じ人間で、同じ近代国家だからだ。
しかしただ一点だけ大きく異なるところがあり、
これが両者の根本的で決定的な差なのだ」
と論じた方が、
差異が際立つ論法と同じである。

敵対者の中に、主人公とこのようにできる部分を見つけたので、
これは根本的な、構造に関するリライトになるだろう。


このようなことを冷静に判断し、
改造点を考慮するには、
「ただしくみること」がとても大事だ。

その見立てが間違っていたら、
どんな手術も失敗に陥る。

そのためには、
冷静に見れるかどうかだけが、
唯一の指針。



第一稿の精度は恐ろしく低い。
しかもカーッとなっていて、周りなど見えていない。
そのフルチン踊りを、
時間が経って冷静に分析するのに、
手書き→タイピング清書はおすすめである。

この時に、
「何ができていて、何ができていないか」
「理想はどうであれば最高か」
がただしく見えれば、
その理想に向けて構築し直せばいいだけのこと。

0から1にすることが一番難しくて、
1を100にすることは簡単らしい。
第一稿は、フォームもめちゃくちゃな、
とりあえずゴールに倒れこんだみっともない疾走だ。
しかしそれを、エレガントに、理想的に、
物凄く面白くなるようにすればいいだけのこと。


あなたの第一稿は、
思っていたものの、何分の一の完成度?

おれたちの闘いは、ここからなんだぜ。
posted by おおおかとしひこ at 13:13| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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