2019年10月02日

なぜ魅力的な主人公が生まれないのか

リーダーについて考えていないからではないか。


物語とは大枠で「事件や問題の解決」を扱う。
何かが発生してから解決するそれまでの間に、
個々人の抱える問題を解決したり、
小さなわだかまりを克服したりもする。

結果、事件が発生する以前よりも、
かえって良い変化が起こった、
という枠組みでなにかを描こうとするものである。

そして、その変化の価値こそが、
テーマに直結するわけだ。

で、
偉大な、価値ある、素晴らしい物語を書こうと思ったら、
価値のある変化を描くべきである。
そしてその変化とは、
半径2メートルの範囲ではなく、
周りを巻き込んだ何か、
社会を巻き込んだ何か、
地球や銀河を巻き込んだ何かである。

で、
それ規模の問題を解決したり、
変化を起こす主人公とはどういう人物だろう。

たった一人でそれを成し得るスーパーマンだろうか?
それでは何も面白くない。
なぜなら嘘っぽいからだ。

我々の社会でリアルにその規模の変化を起こす人は、
「何かしらのチームリーダー」なのだ。

積極的に動き、
曲者たちをまとめあげ、
時には人間的な弱みもこぼすものの、
何かしらの使命をやり遂げる人。

人の一人一人の力はちっぽけだけど、
集まり、まとまると凄い力になる。

何か大きな問題を解決するには、
チームの力、そしてリーダーの力が必要だ。

要するに、
主人公はリーダーなのだ。

すなわち、
面白く、偉大な物語とは、
必然的に、
ある種のリーダー論が重なり合うことを意味する。
旧来のリーダー論ではなく、
恐らくは独特で新しく、
リアリティのあるリーダー論であるべきだろう。


このような要求に対して、
そんなことなんにも考えてなかった、
と思う初心者は多いはずだ。

なぜなら初心者ほどメアリースーに囚われやすく、
「なるべく楽をして果実を得たい」
自分自身を反映させてしまうため、
「一匹狼的な」「孤立している」「無視されている」
個人を主役にしがちだからだ。
「なるべく楽をしたい」から、
リーダーとしての苦労や、バラバラなチームをまとめ上げる大変さや責任から、
逃げがちであるということだ。

実人生でリーダー経験があるかどうかは問わない。
殺人をしなければ殺人犯が描けない訳ではない。
他人であるところのリーダーを、
魅力的に描けるのかどうか、ということでしかない。


つまり、
かまってちゃんのぼくちゃんしか考えたことのない人は、
他人であり、リーダーである人格を、
主人公にしようなどとは、
露ほども思わないのだ。
だって難しそうで面倒そうだし。
もっと楽しておいしい所をもってけないか、
とついつい考えることは、
既にメアリースーに取り憑かれているわけだ。


じゃあ逆に、
チームリーダーを主人公にした物語を書いてみれば良いのだ。
癖のあるチームをまとめて、
かつ人間的魅力もあり、
個人的な問題も抱えていて、
それらをうまく解決することと、
映画全体の問題の解決が、
同時になるようにすればいいだけのことである。

むずかしい?
だから脚本はおもしろいんだよ。


最初から長編でこれを書くのは困難だろう。
まずは短編でリーダーを書いてみるとよい。
彼は普段プライベートで何を考えているのだろう。
必要な資質は。
なぜ周囲は彼または彼女をリーダーと認めるのか。
ほかに適切な人がリーダーに選ばれないのか。
なぜ彼または彼女に皆力を惜しまずに協力するのか。

陰キャだから脚本なんて書いている。
実社会のリーダーは陽キャだ。
もっと魅力的な陽キャについて、
きちんと考えたほうがいい。
もちろん、寡黙なタイプのリーダーもいる。

どんなリーダーなら話を面白くし、
事件を見事に解決まで結び付けられるか、
考えるといい。


リーダーは批判の矛先になり、
全ての汚いことを被らなければならない。
それでもなにかを成し遂げるから、
偉大なのだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:48| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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