リーダーについて考えていないからではないか。
物語とは大枠で「事件や問題の解決」を扱う。
何かが発生してから解決するそれまでの間に、
個々人の抱える問題を解決したり、
小さなわだかまりを克服したりもする。
結果、事件が発生する以前よりも、
かえって良い変化が起こった、
という枠組みでなにかを描こうとするものである。
そして、その変化の価値こそが、
テーマに直結するわけだ。
で、
偉大な、価値ある、素晴らしい物語を書こうと思ったら、
価値のある変化を描くべきである。
そしてその変化とは、
半径2メートルの範囲ではなく、
周りを巻き込んだ何か、
社会を巻き込んだ何か、
地球や銀河を巻き込んだ何かである。
で、
それ規模の問題を解決したり、
変化を起こす主人公とはどういう人物だろう。
たった一人でそれを成し得るスーパーマンだろうか?
それでは何も面白くない。
なぜなら嘘っぽいからだ。
我々の社会でリアルにその規模の変化を起こす人は、
「何かしらのチームリーダー」なのだ。
積極的に動き、
曲者たちをまとめあげ、
時には人間的な弱みもこぼすものの、
何かしらの使命をやり遂げる人。
人の一人一人の力はちっぽけだけど、
集まり、まとまると凄い力になる。
何か大きな問題を解決するには、
チームの力、そしてリーダーの力が必要だ。
要するに、
主人公はリーダーなのだ。
すなわち、
面白く、偉大な物語とは、
必然的に、
ある種のリーダー論が重なり合うことを意味する。
旧来のリーダー論ではなく、
恐らくは独特で新しく、
リアリティのあるリーダー論であるべきだろう。
このような要求に対して、
そんなことなんにも考えてなかった、
と思う初心者は多いはずだ。
なぜなら初心者ほどメアリースーに囚われやすく、
「なるべく楽をして果実を得たい」
自分自身を反映させてしまうため、
「一匹狼的な」「孤立している」「無視されている」
個人を主役にしがちだからだ。
「なるべく楽をしたい」から、
リーダーとしての苦労や、バラバラなチームをまとめ上げる大変さや責任から、
逃げがちであるということだ。
実人生でリーダー経験があるかどうかは問わない。
殺人をしなければ殺人犯が描けない訳ではない。
他人であるところのリーダーを、
魅力的に描けるのかどうか、ということでしかない。
つまり、
かまってちゃんのぼくちゃんしか考えたことのない人は、
他人であり、リーダーである人格を、
主人公にしようなどとは、
露ほども思わないのだ。
だって難しそうで面倒そうだし。
もっと楽しておいしい所をもってけないか、
とついつい考えることは、
既にメアリースーに取り憑かれているわけだ。
じゃあ逆に、
チームリーダーを主人公にした物語を書いてみれば良いのだ。
癖のあるチームをまとめて、
かつ人間的魅力もあり、
個人的な問題も抱えていて、
それらをうまく解決することと、
映画全体の問題の解決が、
同時になるようにすればいいだけのことである。
むずかしい?
だから脚本はおもしろいんだよ。
最初から長編でこれを書くのは困難だろう。
まずは短編でリーダーを書いてみるとよい。
彼は普段プライベートで何を考えているのだろう。
必要な資質は。
なぜ周囲は彼または彼女をリーダーと認めるのか。
ほかに適切な人がリーダーに選ばれないのか。
なぜ彼または彼女に皆力を惜しまずに協力するのか。
陰キャだから脚本なんて書いている。
実社会のリーダーは陽キャだ。
もっと魅力的な陽キャについて、
きちんと考えたほうがいい。
もちろん、寡黙なタイプのリーダーもいる。
どんなリーダーなら話を面白くし、
事件を見事に解決まで結び付けられるか、
考えるといい。
リーダーは批判の矛先になり、
全ての汚いことを被らなければならない。
それでもなにかを成し遂げるから、
偉大なのだ。
2019年10月02日
この記事へのコメント
コメントを書く