2019年10月02日

書けなくなる理由は、「他人が書けない」からじゃないか

大袈裟に考えてみる。


途中でどうすればいいかわからなくなり、
書けなくなってしまう現象。
これを防ぐことは、特に初心者には難しい。
原因はひとつではなく、
さまざまな複合要因であるし、
これまでに対策はいくつも書いてきた。

いわく、

プロットを終わりまで書くなど、計画をきちんとする
ラストシーンを先に書いてしまう
無理矢理打ち切りエンドを書いて、終わらせる経験を積む
各人の目的を整理する
今どう思っているか、登場人物たちに話させる
計画しすぎず、ゆるみを作っておく
伏線をあったことにして、回収場面を作って強引に進める
出落ち以外の展開を用意しておく

などがあったと思う。


しかしそれでも書けないことはたくさんある。
複雑になりすぎて、
自分自身で整理しきれないなどもあるだろう。

で、
実はそれ以前でつまづいているのでは?
ということに想像が至ったので、
書いておくことにした。


そもそも、お話の背骨はなんだろうか?

前記事のリーダー論でも書いたけど、
「他人との関わり合いの中で事件を解決すること」
だ。

ひとりの登場人物が、
ひとりで解決して、
自己満足に至る(あるいは誰かに感謝される)
のは、ストーリーではないのだ。

ためしにそういう面白い話があるなら教えてくれ。
ちなみに実話、またはそれを基にしたものはだめだ。
ルポはここで扱うフィクションのストーリーではない。
ルポはその体験の貴重さがネタだが、
ストーリーは独自体験の貴重さではなく、
「誰にでも通じる特殊な話」で構築するものだ。

特殊風俗体験談はルポにはなるが、
ストーリーにはならない。
なぜならテーマがないからだ。

フィクションのストーリーとは、
主人公と敵対者が揉めて、解決することが背骨である。
最低二人の登場人物が必要で、
揉めることが必要だ。
(なぜなら反対しない限り同意になり、
「これしたいんだけど」「おけ」で終わりだからだ)

一人称が三人称形式の脚本に危険なのは、
ルポが「主人公と敵対者のもめごと」という背骨と、
相容れないからである。


要するに、
フィクションのストーリーとはもめごとのことなのだ。

で、本題。


自分しか描けず、
他人を描けない未熟者は、
そもそもこれを描けないのではないか?


他人は、
自分と違う価値を持ち、
自分と違う立場を持ち、
自分と違う性格で、
自分と違う過去の経験を持っていて、
自分と違う身体能力やスキルやルックスやバランスで、
自分と違う目的をもっている。

そして、シナリオに自分を登場させてはいけない
(メアリースー対策)から、
最低でもこの他人を2人創作しなければいけないことになる。

「自分と違う人がひとりでもいたら嫌」などという、
多様性と逆行する本能が人にはある。
だから群れたがるし、それを確認するためにいじめが起こる。

だから、それを創作でもそう思っている可能性があるのでは、
ということ。

他人を嫌だから排除したいと思っていては、
他人が最低二人もいる、
物語など最初から書けないのでは?


人にはいろんな種類がいる。
他人が嫌いで、山登りしたり釣り人になったり、
陶芸家になったりする人もいるだろう。
それはそれで良いことだ。
つまり、
自分の苦悩や喜びに興味があることよりも、
他人(架空)の苦悩や喜びに興味がないと、
そもそもストーリーなど書けないのである。

(架空の)他人と(架空の)他人のプロレスで楽しませるのが、
物語の基本構造なのだから。


自分を書いてはいけない、
ということを別の角度から見ると、
このように見えるかと思う。



そもそも他人を面白おかしく書いてるか?
他人と他人の揉め事を書いているか?
自分とは全く違う二人以上のあれこれを。

勿論、どこか自分と共通する部分があるのは当然だ。
そうじゃないと何も書けないだろうから。

ルポと違うのはそこなのだ。
フィクションのストーリーの中の登場人物は、
まったくの他人設定でありながら、
どこかは自分と共通していて、
他人でもあり自分でもあるようなキャラクターが、
何人もいる。
ルポは、自分は一人しかいない。

その辺の違いだろう。
posted by おおおかとしひこ at 13:59| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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