前記事の続き。
なぜ架空の世界の架空の他人と架空の他人の、
争いの顛末を見届けるだけで、
私たちは影響を受けるのか?
あまつさえ、人生が変わったり、
それが普及して世界の見え方が変わったりするのか?
「ある考え方の見事な勝利」を体験するからである。
物語とは、
架空の他人と他人の争いである。
その他人と他人は、
立場も違えば考え方も違う。
だから争いが起こる。
目的が全く別々で、
交わらない線にいれば問題なかったのに、
どこかで衝突してしまったがゆえに、
自分の目的を完遂するには、
邪魔な他人を排除しなければならない。
お互いがそうなっている状態をコンフリクトといい、
これを解消することが物語の本体である。
決着の仕方は、
殺しあうから、
妥協し合うから、
説得して考え方を変えてもらうことから、
思いもよらなかった第三案にたどり着いて終わるまである。
物語にはクライマックスというものがあり、
これはその他人と他人が直接対決することで描かれる。
直接対決しないで決着をつけることは難しいからだ。
そして、どちらかが勝利し、どちらかが道を譲ることになる。
この、勝利する側を主人公といい、
敗北する側を敵対者と呼ぶ。
敵対者は悪とか敵とは限らない。
乗り越えるべき父親とか、同業他社とか、ライバルの場合もある。
で、本題。
敵対者と主人公の「考え方」は異なる。
彼らはその原理に従って行動する。
考え方だけでなく、
価値観、人生観、哲学、生活感、マナーも含むだろう。
で、主人公は敵対者に勝利するわけだから、
主人公の考え方が、「正しかった」と証明したことになる。
これがテーマである。
テーマとは、名詞形(体言止め)でなく、
テーゼの形(PはQである)の形をしているべきだ。
「愛」ではなく、
「愛は地球を救う」「愛は金より大事」「愛とか言ってる暇があったら働け」
などの形であるべきだ。
なぜなら、これが主人公の考え方だからだ。
これをXとする。
敵対者の考え方をYとする。
物語とは、他人であるところの主人公と敵対者が、
最終的に直接対決して、主人公が勝利するものだ。
このとき、彼らはXYという考え方に基づいて行動する。
これは彼らの脳内の主張や理想とする未来のことではなく、
行動原理のようなものだ。
主人公の勝利によって、
我々は、「Yという考え方は間違っていて、
Xという考え方が正しかった」と思う。
つまり、
ただの脳内主張でないXが、
「実際にYという考え方を凌駕した証明をみた」
ことによって、
Xを正しいと思うようになるわけだ。
「実際に」と書いたけれど、
現実に証明するわけではない。
物語とは架空の世界の架空の出来事である。
ということは、
架空の証明を我々は見ている。
これが、「本当っぽい」から意味があるのだ。
リアリティを考えるとき、
これが必要なのは、
「その証明の導出が、ほんとっぽく見えること」
であれば良い。
それ以上にリアルである必要はない。
その証明が嘘っぽい、
つまり矛盾があったりミスがあったり、
齟齬はないがなんか変だったり、
これを知ってればこうなる筈がない、などの綻びがあると、
それらは信用に足らない証明となるわけだ。
XやYには架空の代入が可能だ。
たとえば、
X:人はラーメンだけで生きていける
Y:人は野菜だけで生きていくべき
と考える二人がいて、
ボクシングで試合することになり、
Xが勝利すれば、
ラーメンこそ至高の完全食だと証明したことになる。
その過程が十分リアルであれば、
という条件つきで。
そしてこれは、作者の腕があれば、
少なくともコメディレベルでは可能だと考えられる。
ふつうは、突飛な考え方XYに選ぶことはない。
Xには妥当な、我々の信じたい、まっとうなものを入れて、
Yには、いけすかない、これが正しいと証明されたら生きる意味がない、
みたいなものを入れる。
勧善懲悪と、それは呼ばれる。
正義と悪の二項対立にすると分かりやすいだけだが、
たとえば、
Xにスピードこそ至高、
Yにパワーこそ至高、
を代入して、ボクシングをさせることは、
ボクシング漫画によくある構図だよね。
わかりやすいテーマの物語とは、
XとYが強くシンプルに立っていて、
対立点や相違点がわかりやすく
(必ずしも真逆である必要はない。
資本主義と共産主義は真逆であるが、
「人類を幸福にする」という目的自体はおなじだ)、
そして、
その勝利の過程に説得力があり、
「なるほどこの考え方はとてもよい。
自分の人生に取り入れてみよう」
となることを言う。
ただの主張演説ではなく、
実際に証明して見せるところまであるから、
架空世界の架空人物の架空事件の架空解決なのだ。
ところで、
物語とは人物の変化である。
主人公が最初からXという結論を持っていたわけではない。
むしろ最初はAという別の考え方で、
旅の途中に劇的なことに出会い、
Xという考え方に変わっていく、
という変化を経験することで、
Xがテーマになる。
つまり、Xは、物語の途中のどこかで発見される。
(それを迎えにいきやすくするために、
AはXの何かから欠けている状態からスタートさせることが多い)
Aはより一般的だが価値のない考え方、
Xは特殊かもしれないが正しい価値のある考え方、
あるいは、
Aは個人的な考え方、
Xは広く信じられている考え方、
などのようなペアであることが多い。
つまり、
物語とは、
Aという行動原理の主人公が、
Yという行動原理の敵対者に出会い、
いろいろあってXという行動原理に変化し、
敵対者に勝利することで、
Xが正しいと、
架空の世界と事件で証明することをいう。
なぜ我々がリアリティを考慮しなければいけないか、
なぜ我々が主張してはいけないか、
なぜ我々が自分でなく他人を描かなくてはならないか、
これで理解できたと思う。
つまり、
物語を書くには、
考え方自体を比較検討してその変化まで描けるだけの、
客観性、冷静さが必要なのだ。
この能力のたりない人が、
最後まで書けなかったり、
次何を書けばいいかわからなくなって路頭に迷ったり、
リアリティのない話を書いたり、
メアリースーに取り憑かれて御都合主義にはまる。
もちろん、それでいて、
物語は「その人のぎりぎり」という熱を持つ。
他人の話でありながら、
いつのまにか自分のことのように思えるほどの、
熱がなければ、
リアリティもくそもないからである。
むずかしいね。
だからおもしろい。
2019年10月03日
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