さまざまな登場人物の、
さまざまな考え方が羅列されてくる。
そしてそれは変化を物語上経験する。
(考え方を変化させない唯一の人物は、
敗北する悪役だともよく言われる)
これらをややこしくしないための整理の仕方。
「自分の考えとの相対距離で把握する」こと。
考え方(登場人物の行動原理)を、
ABCDEF…などとしよう。
作者自身の考え方をZとする。
全ての登場人物の考え方を、
Z-A(差分)と、
Z×A(共通部分)で、
捉えると良い。
つまり、
Aは自分に近いとか、
Bは自分に似てるけど差分が強烈に違うとか、
Cは自分と大体真逆だなあ、
などと捉えるようにすると、
把握しやすい。
また、身近な誰かに似てるとか
(好きな人でも嫌いな人でも)もある。
誰かをモデルにする、というのはよくあることだ。
(モデルにしすぎて、いつもこの人の話にはこんなキャラ出てくるよね、
というパターンに陥るべきではない)
で、
当然の話だけど、
自分に近いキャラには愛着が湧くし、
遠いキャラには、憎悪または手に入らない憧れが湧くだろう。
この感情を自覚することである。
つまり、贔屓に気をつけろということだ。
刃牙のオウガを見ればその忖度がいかに読者をがっかりさせるか、
一目瞭然というものだろう。
これを避けるため、
主人公は、自分と違う考え方をしている人がいいよ、
と僕は毎度アドバイスしている。
作者に近い考え方のキャラは、
脇にいる、主人公に助言を与えるオッサンとか、
そういうパターンが多いらしい。
これなら作者のプライドも満足するし、
主人公を自分と違って暴れさせられるからだ。
自分との相対距離が把握できるようになったら、
今度は、
「Aから見たBCD…」
「Bから見たACD…」
などの感覚を、一通り想像してみると良い。
頭が混乱しそうになるけれど、
それが、
「各キャラクターが見ている世界そのもの」
だと思うと、
なかなかに感慨ではないか。
もちろん、
その強度というものがあって、
重要人物ほどくっきりと世界が見えていて、
脇の人物ほど、そんなに違いはなくて、
「常識の範囲内」レベルに収まっているだろうけどね。
(全員のシミュレーションをしていたら、
きりがないし、観客も把握しきれない。
把握しきれないからこそ、三国志などは人気があるまま続いているが)
自分との相対距離をはかること。
撞着や忖度に気づくこと。
この二点をやっておくと、時々冷静になれるよ。
>さまざまな登場人物の、
さまざまな考え方が羅列されてくる。
そしてそれは変化を物語上経験する。
(考え方を変化させない唯一の人物は、
敗北する悪役だともよく言われる)
と過去記事からの
>主人公の考え方:A→Xへの変化
敵対者の考え方:Y
のほかにも登場人物はいる。
映画一本だとメインは5、6人がちょうどいい、
と僕は考えていて、
つまり「考え方の数」は、6、7あるということ。
それとデフォルトの考え方もある。
「常識」というやつだ。
を突き合わせると
登場人物
A(主人公)→Vへの変化
B→Wへの変化
C→Xへの変化
D→Yへの変化
E→Zへの変化
F(敵役なので変わらない)
になるわけですか?
あるいは
登場人物
A(主人公)→Vへの変化
B→Vへの変化
C→Wへの変化
D→Wへの変化
E→Xへの変化
F(敵役なので変わらない)
とか色んなパターンも理想的にはあるということになりますでしょうか?
たぶんこれらが理想形で、そこまで腕がない場合は最低限
登場人物
A(主人公)→Vへの変化
B→Bへの変化
C→Cへの変化
D→Dへの変化
E→Eへの変化
F(敵役なので変わらない)
と、主人公のA→Vへの変化だけでも書ければよし、とう感じでしょうか?
それであってます。
主人の変化と、敵対者の変化しないことを幹にして、
他の登場人物は枝葉と考えると分かりやすいかと。
また、全員同じ考えZに変化してしまうと、
なんだか宗教映画やプロパガンダのように嘘くさいので、
それぞれ違う考え方になってゆくのが理想でしょう。
これらを全部無理なく描き分けることはたいへん腕がいるので、
「主人公は劇的な変化をする、
敵は変わらず敗北、
他の人たちはこれらに影響を受けて、
少し変わる(人生が少し良くなる程度に)」
あたりがスタンダードですかね。
クライマックスを終えた後日談に、
「実は私たち結婚したの」なんてサブキャラ同士のネタがあるのは、
変化を短時間で描きやすい鉄板だからでしょう。
(ドラマ風魔最終回で、小次郎の口癖が蘭子に移るのも、
端的な影響を示す表現)
旧記事で
>ストーリーとは何か?
目的の発生から、その目的が達成されるまでが、
ストーリーである。
とありますが、これは
主人公の考え方は
A→Vに最終的に変化する
が、その目的は最後まで変化しない、と考えていいのでしょうか?
例えば「七人の侍」のリーダーの勘兵衛の場合
目的(動機)
野武士から百姓を守る(不変)。
主人公の考え方
百姓のために戦う義侠心→「勝ったのは百姓だった」というある種の敗北感。
と、考えは変わっていても、目的は最後まで遂行されます。
考えは最終的に変わるけど、目的は最後まで変わらない、というのがスタンダードなあり方ということでしょうか?
もし目的が映画の途中で変わってしまう場合は、相当な変化球な映画またはダメ映画である、ということでしょうか?
主人公の心情が途中で変わり過ぎて、目的まで変わってしまうような映画を作るのは難易度が高い、ということでしょうか?
一般的には目的(動機)がぐらついて悩むが、また目的に戻って邁進する、というパターンで、目的は不変というパターン多い気はしますが……。
そうすると主人公の考え方の変化は、目的(動機)までがくつがえるような方向にまで変化するのは望ましくない、ということでしょうか?
目的は途中で変わっても大丈夫でしょう。
ただ「最初のあれはどうなったんだっけ」
と忘れてしまってはいけないだけで。
「色々あったけど、
最初に目的としたことは、結果達成されていたなあ」
とならないと、
多分気持ち悪いでしょうね。
いつもしつこくてすいません。
また理解力が乏しいので、遅いリアクションになってすいません。
>目的は途中で変わっても大丈夫でしょう。
例えば映画『銀河鉄道999』は主人公の目的(動機)は永遠の生命を得ることですが、結果は違いますよね。
目的(動機)永遠の生命を得る
変化 割と凡庸な少年→ハーロックやメーテルの影響を受け、男として立派な人間になろうとする。
ではないかと思うのです。
ということは、目的(動機)はとりあえず主人公を動かし、また観客を乗せるための一種の装置のようなもので、必ずしも主人公の変化や作品のテーマに沿わなくてもいい。
だから目的(動機)は作中で変わってもいいのだ、ということでしょうか?
本当にしつこくてすません……。
銀河鉄道999の場合、
「永遠の命が欲しい」からはじまって、
「命は限りあるからよいのだ」という結論に達します。
冒頭に結末が答えている構造です。
もちろん時々の目的は細かくは変わりますが、
この大枠は変わらないです。
むしろその変化こそがテーマになっています。