2019年10月07日

主人公にはなにが足りないのか

物語には縦糸と横糸があるとしよう。

僕は縦糸はこれだと考えている。


主人公は何かが足りない。

明らかに足りない場合もあれば、
一見普通だが実は大きく欠落していることが分かる場合もあれば、
Aが足りないと思っていたら、実はBだったというパターンもあるだろう。

それをまず序盤、できれば初登場付近で見せられるのがベストだ。
主人公キャラクターの設定に、
現状と足りていないなにかを同時に見せられるといい。
つまりは第一印象にそれを含ませるということだ。

あるいは、足りないことは、
あとで徐々に明らかにしてもいい。
あとでつけると後付けに見えるから、
その伏線を第一印象に含ませておくと、
自然な展開(深みに至る)ように見えるだろう。

欠点なのか、渇きなのか、避けたいことなのか。
とにかく主人公は完璧超人ではなく、
凸もあれば凹もある。
人間だからね。

で、
物語の縦糸とは、
この凹を克服することだと僕は考えている。


つまり、
主人公にはAが足りない。
Aをしなければならない、
一番キツイ場面がやってくる。
主人公はそれを乗り越えなければならない
(ような理由づけをうまく作るのが問題設定)。
見事克服する。(ドラマ)
そしてAを怖がらなくなり、
より成長した人になる。

この流れが、必ずどこかにある。
(ボトムポイントで成長のヒントがあり、
クライマックスで結実するのがよくあるパターン)

逆にいうと、
この縦糸がないのは、物語ではない、
とすら僕は考えている。
仮にあったとしても、
それが細い糸だったらそれは細い物語だと考える。

シンゴジラの批判対象は主人公のドラマの薄さだし、
ファイアパンチの批判対象は主人公の身勝手さと、
願望を周りが叶える御都合主義だ。

また、メアリースーの典型、
「落下する夕方」テンプレは、
「それまで何もできなかった主人公が、
最後に一歩踏み出して終わる」だけど、
一歩だけではうっすいドラマになるわけだ。


この縦糸に対して、横糸はなんだろう。

二幕の冒険の面白さじゃないかと思う。
新しい非日常世界の経験だったり、
色んなキャラクターとのあれこれだったり、
楽しいことや辛いことの起伏の感情だったりだろう。

物語をはじめる理由は事件であり、
物語を進める理由はその進展であり、
物語の終結は解決であるが、
それは、
主人公の足りない部分の克服という縦糸と、
世界の冒険という横糸で編まれる、
ということである。

これはとてもざっくりした見方で、
これに当てはまらない名作もあるかもしれないが、
全て検討したわけではないことを注記しておく。


つまり、
設定をいくら練っても横糸(の一部)にしかならないし、
メアリースーは縦糸を細くするわけだ。

縦糸をきちんと太くしたかったら、
主人公に足りないもの、
主人公がそれを突きつけられ、
克服していく様、
そして成長した姿になること、
このドラマを、事件解決の過程で、
どう作るかなのだ。

事件が起こらなかったら、主人公の成長のきっかけも永遠になかった。
そういう風に考えるといいだろう。


ドラマ風魔の場合、
原作では弱かったこの縦糸を、
徹底的に太くして、真ん中の軸に据えた。
だから、きちんとしたドラマに見えたと思う。

小次郎に足りないのは実戦経験で、
頭ではわかっていたけど、
ただの押し付けに反発し、
仲間を失うことや恋のことで沢山の経験を積み、
風林火山の完成こそが自分の役目だと知り、
麗羅を失うことと引き換えに役目を果たし、
戦うとはどういうことか、
風魔であるとはどういうことかを、
ついに会得するわけだ。

このドラマが中心にいるから、
羽兄弟や劉鵬や霧風や、武蔵や壬生や陽炎や、
その他のキャラの横糸と交差して楽しめるのである。


もし原作のように、
ただ騒がしいだけでやる時はやり、
風林火山で確変が入ったように強くなっただけでは、
こうも骨太なドラマと評価されなかっただろう。
原作を適当にアレンジした、安いビジュアルの安いドラマで終わっていた。

ビジュアルは安く、演技も棒だが、
ドラマとして面白い理由は、
この縦糸が出来ているからだ。

勿論横糸の脇役のドラマもアレンジが効いてて面白いし、
殺陣やCGも良かったりする。
縦糸だけでは作品にならないが、
まず背骨がないとぐにゃぐにゃである。



ということで、
この芯が上手に出来るか否か、
つまり、
どう弱点に向き合い、
どのような手段で克服して、
最終的にどうなったかが、
面白くないと、
そもそも何をやっても面白くならないよ。


その最初の一点は、
主人公の足りない部分はなにか、
ということなのだ。

もちろん、主人公をあなたにしてはいけない。
あなたの弱点が主人公に付与されてしまい、
一生克服できなくなってしまう。
(あるいは適当に克復されてしまう)

リアリティがあり、ドラマになる、
「他人が足りないものを得る」
ものを考えられるようにならなければならない。
posted by おおおかとしひこ at 11:21| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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