2019年10月11日

時々口で言ってみよう

自分の思い込みを客観化できるかもしれない。


話し言葉というのはとても面白い道具で、
「どんどん簡略化していく」
という傾向がある。

口を動かしにくい方から動かしやすい方へ、
リズムを取りにくい方から取りやすい方へ、
何度も言わなければならない事をなるべく言わない方へ、
簡略化する。


最近だと「パリピ」か。
元々の言葉「パーティーピープル」は音節数が多いから、
略語へと簡略化される宿命にあった言葉。
しかもウェーイ系よりも短く言える利点がある。

元の「パーティーピープル」「party people」
の文字だけ何回見ても、パリピには略せない。
精々パーピーとかパティピーとかが限界で、
これは口馴染みが悪く流行らなかったろう。
耳で聞いた略号でもパリピには至らない。
これがパリピに定着するには、
「口に出して口馴染みさせる」が必要だ。
TYPの音の連続が、日本人にはRになることを、
口の運動で理解する必要がある。

わざわざ理解しなくても、
一回言ってみればすぐにわかることだから、
こんなにも広まったわけだ。


頭で考えた言葉と、
実際の言葉は、これだけ差がある。
そして口に出してみないことには、
頭の中だけで考えていてはわからないことがある。


脚本なんて言い方だ。
言い方をたくさん集めた120ページだ。

あなたの頭の中でだけしか存在しない概念を、
言い方で表現するための材料だ。

頭の中で「パティピ」だと思ってたとしても、
ほとんどの人は「パリピ」と言うようになる。


その差をわかるためには、
つまり頭の中の主観と、物理を介した客観の差を実感するには、
口に出して何回か言ってみることは、
とても有効な方法なのだ。

口に出してみたらわかりにくいとか、
文字ではそう思わなかったが、
口に出してみると繰り返しが気持ちいいとか、
そんなこと沢山あるのだ。


先日見た映画は、
セリフが洗練されてなくて、
脚本家の頭の中の、
客観化されていない言葉を沢山浴びせられて、
とてもうんざりしていた。
これは、口に出して言ってないな、って感じの言葉だらけだった。

役者が口に出すまで自分になじませるだけの、
妙な間が多くて、
それがストーリー進行を止めていて、
こちらが待たなくてはいけないものになっていた。


口に出してみることで、
「これが実在しうる」かどうか、
判別することができる。

あるいは、初見の人に、
口に出してもらい、
口に馴染むか試してもらうのも手である。


あなたの中にしか存在しない主観は、
その時恥ずかしくなってひっこんでゆく。
決してパティピーとは言わないな、
とその時わかるだろう。


僕が学生の時、「午後の紅茶」の略称がまだ
「午後ティー」に統一されてないとき、
一人だけ「午後こー」と言っていた宮田くんを思い出す。
関西人だから「冷コー」に近い感覚なのだろう。
それは彼だけの中での主観だったなあ。

もちろん、ずれているが強い主観というのもあって、
作者があえて午後こーを選んでいる自覚があれば問題ない。
宮田くんは自覚がなくて、だから面白かった。
宮田くんは最後までそれに気づいてなくて、
むしろ俺の発明ぐらいに言っていた。

午後こーとパリピ。
言ってみないと、客観になれないこともある。
posted by おおおかとしひこ at 01:38| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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