2019年10月21日

シュレディンガーの猫(「ジョーカー」批評3)

恐怖とはなにか。わからないことだ。
以下ネタバレで。


この話は何もかもわからない。

どうすればアーサーは、ふつうの意味で幸せになれたのか?
ジョーカーは悪なのか?
公正や正義など、方便ではないのか?


さらに輪をかけているのが、
「アーサーの認識は正しいのか?」だ。

アーサーが狂っている(または妄想がひどい)と思わせる箇所は、
たった一箇所。
「隣の黒人女といい関係になっている」と思い込んでいたところ。

これによって、
観客は不信に叩き落とされる。

あのショーの出演依頼も妄想だったのでは?
ショーで司会者を殺したのも妄想だったのでは?
(そのあとニュースで報道されるが、
報道すら嘘ではないかとかかるのが現代の常識だろう。
また、その後誰もあの人気司会者の死について触れていない)

お屋敷に出向いたのも妄想だったのでは?
富豪とトイレで都合よく話せたのも、妄想だったのでは?

隣の黒人女も妄想では?
母親もいなかったのでは?


そして、映画全編すら、
収監された精神病の男の妄想だったのでは?

(これは本編から解釈可能な範囲だが、
「全ての時計が11:11になっている謎」もネットでみかけた。へえ)


どこにも確かなものがない。

しかもそれを、とびきり面白いジョークなどという。
ジョークの内容は存在しない。
それを言う者がジョーカー。



理論物理学者アインシュタインは、
「神はサイコロを振らない」と言った。
それはつまり、
「この世の中は、いつか解明できる」
「世の中には一定の法則があり、ある秩序のもとに動いている」
ことを前提とした価値観である。

しかし同時代の量子力学は、
「存在は確率的にしか表せない」とコペンハーゲン解釈した。
それに対して大変な反発があり、
「じゃあ箱の中に猫を閉じ込め、
1/2で崩壊する量子を入れたら、死んだ猫と生きた猫が半分づつ存在してるか?
ちゃうやろ」
というシュレディンガーの猫なる反論が生まれたわけだ。

人は「決まっていないこと」に堪えられない。
それは恐怖なのだ。


つまりジョーカーは、シュレディンガーの猫のような、
どこからどこまで確かなのかわからない存在で、
だから恐怖なのだ。


21世紀までは、資本主義や科学技術が「わかる」ものだったが、
上級国民の資産運用や人工知能技術など、
「わからない」ものが世界を覆い始め、しかも主導権をとろうとしている。
その不気味さへの恐怖や反発も、
この映画の追い風になっている。


本気なのか。ジョークなのか。
それすらも分からない。

しらんけど。
posted by おおおかとしひこ at 15:23| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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