ジョーカー批評から続く。
僕は、物語には二種類あると考えている。
「分った」という物語と、「分らない」という物語だ。
「分らない」という物語とは、
結局全貌が分からないことで終る物語だ。
「結局これは夢なのかどうか分らない」終わり方の、
インセプションや、
「犯人はまだ掴まっていない」
というゾディアックや、殺人の追憶などが、
代表的だろう。
また、謎を残して終わるやり方もあるだろう。
「結局、愛していたのかどうかは分らない」
「彼の証言がすべて本当だったのか、
もう誰にも分らないのだ」
などのエンドは、いろんなものにありそうだ。
あるいは、怪談(多くは短編)はほとんどが当てはまる。
「分らないこと」が恐怖だからである。
ジョーカーもその系譜のひとつで、
アーサーの人生が真実であるかどうかは誰にも分らない。
わざとそうしただろう、と僕が考えていることについては、批評を読んでいただきたい。
で、「分った」タイプの物語とは、
いわゆる普通の物語だ。
こうしてこういうことになっていて、
こうだったのだ、と全部が明らかになったところで終るタイプのものである。
なるほど、結局そういうことだったのか、
と全部が丸く収まるタイプは全てこれである。
大きくいうと、ハッピーエンドが「分った」物語、
バッドエンドやビターエンドが「分らない」物語になるのではないだろうか。
つまり、ハッピーエンディングかどうかは、
「全部が分った。こういうことでこうなっていて、
これはこうだったのだ」
と、「納得するか」ということが関係するのではないか?
そのうえで主人公が不幸ならば、
幸福になるように出来るはずだ。
なぜなら、全部分ったからだ。
(そのうえであえて不幸を選び、
誰かの幸せの為に犠牲になる物語などもあるだろう。
バタフライエフェクトとか)
仮に主人公が死なずに日常に生還しても、
一体あれはなんだったんだろう、
などと謎を残すやり方もある。
それは終始不気味な味わいをあとに残す。
ホラーとかでよくあるタイプの終わり方だろう。
ハッピーかバッドかは主人公の人生の問題に過ぎず、
「分った」「分らない」を主軸に考えると、
二種類のやり方が、
物語の終わり方、すなわち結論に、
重要な決定的要素であることが分かると思う。
「我々は野武士に勝った、しかし本当の勝者は農民である」
の結論に至る七人の侍はどうだろう。
「分った」タイプのエンドだ。
なんだかんだ言っても、人生とは生活のことであり、
殺すとか闘いとかと関係ないところにあるのだ、
と、
「分った」ところで終わるからである。
今まで語ってきたことが、
「分った、全部つながった、
首尾一貫して、ここに落ちるために、
全てが計算されて注意深く並べられていたのだ。
なるほど、よくできた仕掛けだ」
ということが、「分った」物語で、
これをつくることは大変難しい。
無駄や矛盾など許されない。
そして、
ありていのことに落ちても面白くないからである。
すでに聞いたことを繰り返し「分った!」などとどや顔で語られても醒めるだけだ。
そうではなく、
我々にとって、新しいニュースであるべきことを、
「分った」と思いたいのだ。
その「分った」ことこそが、
テーマであることは、言わなくても分るかと思われる。
物語を書くこととは、
新しいテーマ、結論に導くように、
すべてを分ったと言わせるように、
全てを整えることを指すと僕は思う。
「分らない」タイプの物語を擁護すると、
人生は最後まで全く分からないし、
科学や哲学は全然答えに辿り着いていないし、
ずるいやつや騙すやつは沢山いるではないか、
我々が知りえることはわずかでしかないではないか、
それを「分った」などということ自体おこがましいのではないか、
という主張があるだろう。
僕は、だからこそ、
「分った」タイプの物語を書くべきだと考えている。
人生は謎だらけで、
ちっとも分らないことだらけだ。
だからこそ、
「この特殊な場合に限るが、
分ったことがある」
という発表が、意味を持つのだと思う。
これは人生観とか、宗教観の問題かもしれない。
僕は、世界を良くしたいし、
知性の営みの系譜の後に続きたい。
そうして人類が分かってきたことを、
増やしてよくしたい。
そう思わない人もいるだろう。
人生は所詮カオスなのだから、
謎ばかり増えて、その場で得だけしていればいいのだ、
などと考えるのかもしれない。
ああ、これはカオス対コスモ(「風魔の小次郎」)
の対立かもしれないね。
僕の書く脚本論は、「分った」ことをベースに考えている。
これが出来るようになったら、
わざとどこかの要素を欠けさせて、
「分らない」という脚本を作ることは可能だろう。
そもそも、「分った」脚本を作ることが難しいので、
初心者には、これをお勧めする。
これが出来ないから、「分らない」タイプの脚本を書いてしまう人が多くて、
それで文学めいた言い訳をしている人が多い。
何が分ったのか?
そのストーリーで、何を分ったことになるのか?
もちろん否定形ではなく、
ふつうのテーゼの形で言わなければならない。
その結論そのものを見出すこと、
それを納得のいくようにストーリーを組むこと。
それ自体がとても難しく、パズルのようになっている。
その秩序を作り上げることが、
僕は芸術だと思う。
壊すタイプの芸術は、わりと簡単に作れると、
僕は思うのだ。
(ジョーカーは、その中で卓越した腕のあるものだったが)
2019年10月22日
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