2019年10月22日

「分った」こそが物語

ジョーカー批評から続く。
僕は、物語には二種類あると考えている。
「分った」という物語と、「分らない」という物語だ。


「分らない」という物語とは、
結局全貌が分からないことで終る物語だ。
「結局これは夢なのかどうか分らない」終わり方の、
インセプションや、
「犯人はまだ掴まっていない」
というゾディアックや、殺人の追憶などが、
代表的だろう。
また、謎を残して終わるやり方もあるだろう。
「結局、愛していたのかどうかは分らない」
「彼の証言がすべて本当だったのか、
もう誰にも分らないのだ」
などのエンドは、いろんなものにありそうだ。
あるいは、怪談(多くは短編)はほとんどが当てはまる。
「分らないこと」が恐怖だからである。

ジョーカーもその系譜のひとつで、
アーサーの人生が真実であるかどうかは誰にも分らない。
わざとそうしただろう、と僕が考えていることについては、批評を読んでいただきたい。


で、「分った」タイプの物語とは、
いわゆる普通の物語だ。
こうしてこういうことになっていて、
こうだったのだ、と全部が明らかになったところで終るタイプのものである。
なるほど、結局そういうことだったのか、
と全部が丸く収まるタイプは全てこれである。

大きくいうと、ハッピーエンドが「分った」物語、
バッドエンドやビターエンドが「分らない」物語になるのではないだろうか。

つまり、ハッピーエンディングかどうかは、
「全部が分った。こういうことでこうなっていて、
これはこうだったのだ」
と、「納得するか」ということが関係するのではないか?

そのうえで主人公が不幸ならば、
幸福になるように出来るはずだ。
なぜなら、全部分ったからだ。
(そのうえであえて不幸を選び、
誰かの幸せの為に犠牲になる物語などもあるだろう。
バタフライエフェクトとか)

仮に主人公が死なずに日常に生還しても、
一体あれはなんだったんだろう、
などと謎を残すやり方もある。
それは終始不気味な味わいをあとに残す。
ホラーとかでよくあるタイプの終わり方だろう。

ハッピーかバッドかは主人公の人生の問題に過ぎず、
「分った」「分らない」を主軸に考えると、
二種類のやり方が、
物語の終わり方、すなわち結論に、
重要な決定的要素であることが分かると思う。

「我々は野武士に勝った、しかし本当の勝者は農民である」
の結論に至る七人の侍はどうだろう。
「分った」タイプのエンドだ。
なんだかんだ言っても、人生とは生活のことであり、
殺すとか闘いとかと関係ないところにあるのだ、
と、
「分った」ところで終わるからである。

今まで語ってきたことが、
「分った、全部つながった、
首尾一貫して、ここに落ちるために、
全てが計算されて注意深く並べられていたのだ。
なるほど、よくできた仕掛けだ」
ということが、「分った」物語で、
これをつくることは大変難しい。

無駄や矛盾など許されない。
そして、
ありていのことに落ちても面白くないからである。
すでに聞いたことを繰り返し「分った!」などとどや顔で語られても醒めるだけだ。
そうではなく、
我々にとって、新しいニュースであるべきことを、
「分った」と思いたいのだ。

その「分った」ことこそが、
テーマであることは、言わなくても分るかと思われる。

物語を書くこととは、
新しいテーマ、結論に導くように、
すべてを分ったと言わせるように、
全てを整えることを指すと僕は思う。

「分らない」タイプの物語を擁護すると、
人生は最後まで全く分からないし、
科学や哲学は全然答えに辿り着いていないし、
ずるいやつや騙すやつは沢山いるではないか、
我々が知りえることはわずかでしかないではないか、
それを「分った」などということ自体おこがましいのではないか、
という主張があるだろう。

僕は、だからこそ、
「分った」タイプの物語を書くべきだと考えている。

人生は謎だらけで、
ちっとも分らないことだらけだ。
だからこそ、
「この特殊な場合に限るが、
分ったことがある」
という発表が、意味を持つのだと思う。


これは人生観とか、宗教観の問題かもしれない。
僕は、世界を良くしたいし、
知性の営みの系譜の後に続きたい。
そうして人類が分かってきたことを、
増やしてよくしたい。

そう思わない人もいるだろう。
人生は所詮カオスなのだから、
謎ばかり増えて、その場で得だけしていればいいのだ、
などと考えるのかもしれない。

ああ、これはカオス対コスモ(「風魔の小次郎」)
の対立かもしれないね。


僕の書く脚本論は、「分った」ことをベースに考えている。
これが出来るようになったら、
わざとどこかの要素を欠けさせて、
「分らない」という脚本を作ることは可能だろう。
そもそも、「分った」脚本を作ることが難しいので、
初心者には、これをお勧めする。
これが出来ないから、「分らない」タイプの脚本を書いてしまう人が多くて、
それで文学めいた言い訳をしている人が多い。

何が分ったのか?
そのストーリーで、何を分ったことになるのか?
もちろん否定形ではなく、
ふつうのテーゼの形で言わなければならない。

その結論そのものを見出すこと、
それを納得のいくようにストーリーを組むこと。
それ自体がとても難しく、パズルのようになっている。
その秩序を作り上げることが、
僕は芸術だと思う。

壊すタイプの芸術は、わりと簡単に作れると、
僕は思うのだ。
(ジョーカーは、その中で卓越した腕のあるものだったが)
posted by おおおかとしひこ at 18:15| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。