訓練のために、変人のことを考えよう。
変人は大抵どこかにいる。
変わったことを言う人、
変わったことをする人。
迷惑だろうか。
身近にいる迷惑な変人を思おう。
電車で会った変人でもいい。
リアルな変人を思い出してもいいし、
創作の中の変人でもいい。
しかし我々は創作の中の変人を考えるので、
ベースを創作世界に取るべきではない。
ダビングのダビングになるので、
ベースはリアルに取る。
これまで人生であった、
変人をなるべく思い出しなさい。
複数でもいい。
彼らは突拍子もないことを考える少数者だ。
私たちは常識人で、ふつうの側にいて良かったと安心する。
ふつうの人が多数者で、
変人が少数者で、
多数の側にいると安心する。
排斥されないからである。
変人は皆と違う少数者というだけで排斥されがちだ。
変人はなぜ排斥されるのか。
変だからだ。
さて、ようやく本題。
変人の心の中は、変だろうか?
彼の心の動きは、ふつうの人と違うのだろうか?
彼は自分のことを、ふつうの人と違う、変な心だと思っているか?
僕は違うと思う。
その人は、「自分はふつうだ」と思っている。
「自分はまともな感性をもち、
自分はまともに考え、
自分はまともに反応している」
と考えているはずだ。
客観性がないのか?
いや、その人は、ふつうの人間の関係性ではなく、
排斥されている感覚は感じる。
「なぜふつうなのに排斥されなければならないのか」
と感じているのだ。
「私は変だから排斥されている」とは感じない。
つまり、
「世の中の方が変だ」と考えたり、
「世界はふつうの私にとって窮屈だ」と考えたり、
「私は理由もなく嫌われている」と感じたり、
「みんな仲良くしてくれない」と感じたり、
「ふつうなのに理解してくれない」と感じる。
孤独であり、疎外感をもち、無罪であると考えている。
もちろん変なだけで罪は存在しない。
罪の定義をどうするかだけど、
法律違反を罪とすれば、
ただ変わっていることは罪ではない。
なのに排斥され、疎外感を感じ、孤立している。
これは、私たちのふつうと同じだ。
変人は、変な心ではない。
ふつうの心を持っている。
ただ、かみ合わないだけだ。
このような考察は、
変人を描くときに役に立つ。
物語はふつうの人だけでは起こらない。
特別な変わったことがないと、
強固な日常は揺らがないからだ。
物語の中ではふつうの転校生はやって来ない。
とびきり変でイカした、凄いやつがやって来る。
でもその変人は自分をふつうだと思ってるんだぜ。
このことにより、
自分をふつうだと思い、変人を排斥する多数派と、
変人との間で、
「食い違い」がおこる。
食い違いはコンフリクトを生む。
ただの喧嘩がコンフリクトではない。
コンフリクトの原因は、異なる心である。
つまり変人の心を考えることは、
物語の原因を考えることだ。
あなたは変人かもしれない。排斥されているかもしれない。
周りに変人がいて、あなたは排斥しているかも知れない。
物語の作者は、どちらの立場も理解して、
対決をさせることができる。
どちらかだけしか描けないのなら、
それは自分しか描けないメアリースーってことさ。、
2019年10月25日
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