2019年10月25日

変人の心は変か

訓練のために、変人のことを考えよう。


変人は大抵どこかにいる。
変わったことを言う人、
変わったことをする人。

迷惑だろうか。
身近にいる迷惑な変人を思おう。
電車で会った変人でもいい。
リアルな変人を思い出してもいいし、
創作の中の変人でもいい。

しかし我々は創作の中の変人を考えるので、
ベースを創作世界に取るべきではない。
ダビングのダビングになるので、
ベースはリアルに取る。

これまで人生であった、
変人をなるべく思い出しなさい。
複数でもいい。

彼らは突拍子もないことを考える少数者だ。
私たちは常識人で、ふつうの側にいて良かったと安心する。
ふつうの人が多数者で、
変人が少数者で、
多数の側にいると安心する。
排斥されないからである。

変人は皆と違う少数者というだけで排斥されがちだ。

変人はなぜ排斥されるのか。
変だからだ。

さて、ようやく本題。

変人の心の中は、変だろうか?

彼の心の動きは、ふつうの人と違うのだろうか?
彼は自分のことを、ふつうの人と違う、変な心だと思っているか?


僕は違うと思う。

その人は、「自分はふつうだ」と思っている。
「自分はまともな感性をもち、
自分はまともに考え、
自分はまともに反応している」
と考えているはずだ。

客観性がないのか?
いや、その人は、ふつうの人間の関係性ではなく、
排斥されている感覚は感じる。

「なぜふつうなのに排斥されなければならないのか」
と感じているのだ。
「私は変だから排斥されている」とは感じない。

つまり、
「世の中の方が変だ」と考えたり、
「世界はふつうの私にとって窮屈だ」と考えたり、
「私は理由もなく嫌われている」と感じたり、
「みんな仲良くしてくれない」と感じたり、
「ふつうなのに理解してくれない」と感じる。

孤独であり、疎外感をもち、無罪であると考えている。

もちろん変なだけで罪は存在しない。
罪の定義をどうするかだけど、
法律違反を罪とすれば、
ただ変わっていることは罪ではない。

なのに排斥され、疎外感を感じ、孤立している。


これは、私たちのふつうと同じだ。


変人は、変な心ではない。
ふつうの心を持っている。
ただ、かみ合わないだけだ。

このような考察は、
変人を描くときに役に立つ。

物語はふつうの人だけでは起こらない。
特別な変わったことがないと、
強固な日常は揺らがないからだ。
物語の中ではふつうの転校生はやって来ない。
とびきり変でイカした、凄いやつがやって来る。

でもその変人は自分をふつうだと思ってるんだぜ。

このことにより、
自分をふつうだと思い、変人を排斥する多数派と、
変人との間で、
「食い違い」がおこる。

食い違いはコンフリクトを生む。
ただの喧嘩がコンフリクトではない。
コンフリクトの原因は、異なる心である。

つまり変人の心を考えることは、
物語の原因を考えることだ。


あなたは変人かもしれない。排斥されているかもしれない。
周りに変人がいて、あなたは排斥しているかも知れない。

物語の作者は、どちらの立場も理解して、
対決をさせることができる。

どちらかだけしか描けないのなら、
それは自分しか描けないメアリースーってことさ。、
posted by おおおかとしひこ at 08:28| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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