2019年10月26日

音楽映画ってドラマが足りないのかね(「蜜蜂と遠雷」批評)

圧倒的なピアノシーンの数々は堪能したが、
人間の物語が小さすぎる気がした。


アクション映画はアクションが凄ければそれでいいんだよ、
という説もある。
しかし僕は、人間ドラマがちゃんとすごくて、
アクションもちゃんとすごい、ロッキーみたいなのが好きなので、
「かつての演奏中止を乗り越える」方法の小ささには、
とくに感動を覚えなかった。
ふつう。


小説の映画化の難しさは、
途中途中のいい場面の切り貼りになりがちなことで、
主たる葛藤を中心に背骨を作り直すことが、
とても難しいことだ。

天才16歳との連弾、母との連弾、
海で足音で曲を奏でる、
松坂の背景、
などに良いものがあったけど、
それが、
「かつて演奏できなかったトラウマを乗り越える」
ことに寄与していない。

世界は音楽に満ちていることは分かったけど、
その曲と世界が音楽に満ちているのかとか、
世界が音楽に満ちてない状況とはどういうものか、
が特に表現されていない気がした。
そしてその逆転が、
「ただ気づくだけ」というのは、
とても小さな乗り越え方だなあと。

「コンクールもの」
という一幕ものにしたのは良い構造だが、
結局出場者たちの出落ち(過去話)になりがちで、
彼らの現在が弱いと感じる。

「オーディションもの」の代表の、
コーラスラインと何が違うか考えたいが、
単に僕が映画をたくさんみすぎて、
贅沢になっている可能性がある。


僕は音楽を聞いたりして心を動かすのは好きだが、
だったらコンサートに行けばいいんだよ。
アクションを見るのも大好きだけど、
だったら格闘技をやったり、見たり、
サーカスに行けばいいんだよ。

映画は総合芸術で、人間のドラマを中心に、
全てがぶら下がるべきだ。

佳作ではあるが名作にはなり得なかった。

なお原作は未読。
ひょっとしたら、
原作は曲の部分がより感情豊かに描かれているかもなあ、
などと考えてモヤモヤする。


で?
蜜蜂ってなに?

この映画に限っていえば、
「雨音と遠雷」なんじゃないの?
「黒い馬」とか。
(黒い馬のシーンは美しく撮れていたけど、
全部削除できたね。
逃げ出した駐車場で出会ったのが、
水滴の落ちるピアノでなくて黒い馬であるべきだろう)

「拍手は雨音のように」とかでもいいんじゃないでしょうか。

あるいはタイトルに寄せるなら、
母との連弾シーンで、雨音ではなく、
蜜蜂の羽音をピアノで弾くべきではなかったか?

謎めいたタイトルなんだから、
それの意味がわかった時にテーマに落ちる構造がベストだろう。



役者たち、撮影部照明部はとくによかった。
美術部は微妙、衣装部も微妙。

松坂の家が嘘っぽすぎる、
工房が作り込みすぎている、
月の合成が下手、
水筒が全然新しい、
木の鍵盤が全然ボロボロじゃない
(もっと手の油でベタベタになるはずだ)。

松岡茉優の赤いセーターと青いコートがおしゃれすぎる。
(そのわりに演奏のドレスが芋っぽい)
松坂桃李のスーツがかっこよすぎるし、普段着が微妙。
(役に対して松坂がスタイルが良いのだろう。
衣装でごまかしていくべきだ)
タレントの衣装でしかなく、物語の衣装になっていない。

背の高いイケメンに囲まれたいという、
少女漫画的な欲望が透けて見えたので、
ここをもっと毒抜きするべきだったろう。
三人の男のキャラが似すぎている。

サブプロットの、
「コンポーザーピアニストになりたい」
ところは特によかったが、
それが最後の演奏とどういう関係なのかは分からない。
鹿賀丈史とうまくいったことしか示せていない。


一色まこと「ピアノの森」のほうが好きだな。漫画しか見てないが。
posted by おおおかとしひこ at 13:49| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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