2019年10月26日
この広告が良かったので貼っておく
以下解説。
なんてことのない文章かと思った。
ただ正解と別解が対比されていて、
韻も踏んでいる。
そして、
正解より別解。博報堂
ときたもんだ。
声を出して唸った。
思わずもう一度読み返して、
そこに秘められた意図を味わう。
世の中正論ばかりが幅を利かせて、
どんどん窮屈になっている。
ツイッターをはじめとした監視社会になり、
村八分を恐れて息苦しくなっている。
広告は、だから保守になる。
保守ならまだましで、
事なかれ主義になる。
少しでも炎上しそうなら角を丸めて回避する。
僕は無難ザグレートなどというが、
その皮肉は通じない。
炎上が恐怖だからだ。
僕は表現というものは、炎上と表裏一体だと考えている。
誰かの心に刺さるものは、
誰かの心を引っ掻くかもしれない。
刃物を使うものは相手を切ることもできるが、
刃物に切られるおそれもある。
僕は、その切ったはったが、表現だと考える。
表現は会話だ。
一方的な撫で斬りや、
無視されるものは表現ではない。
論争が起きるのも表現としては未熟だと考える。
論争狙いで二択の結末を残すタイプのやつはとくに好かない。
いま、広告の正論は、
企業が文句を言われないことだ。
じゃあ広告なんてしなきゃいいのに。
なにかを言うことはなにかを言われることだ。
マスメディアではなく双方向メディアになるって、
そういうことだ。
その中でマスメディアで何かを言うならば、
その大衆になにかを言い返されるってことだ。
それが個人であれば、
その覚悟をして表現しているわけだから、
何も傷つかない。
問題は、企業が広告会社に広告内容を丸投げしていること。
広告会社はバカではないから、
世間に切り込む鋭い切り口を考える。
しかし企業が恐れることも知っているから、
広告会社もバカではないから、
社内でその案はいつも潰される。
こうして、忖度だらけの広告が世の中にリリースされ、
何にもならない糞があふれている。
本当に邪魔だ。
僕が憧れて、信じた広告は、
人の心に刺さり、一生忘れられない思い出になる、
とてつもない15秒だ。
その天から地へ落ちるこの20年を僕は見てきた。
博報堂のこの広告は、
現状に異を唱えたい僕らの気持ちを上手にフィルタで濾して、
詰まらない正論よりも、
わくわくする別解へ行きましょうよ、
と誘っている。
完璧な仕事ぶりだ。
僕はたまさか電通の子会社にいて、
博報堂系列より電通系列を選んだのは、
ムービーに強かったからだ。
(伝統的に博報堂はグラフィックポスターに強く、
電通はオモシロCMや感動系などのムービーに強いと言われていた。
現状はそうではないと思う。
博報堂のムービーは相変わらず子供っぽいが、
クリエイティビティの高さは博報堂に軍配があがる)
博報堂がこんなに輝いてみえる日が来るとは。
しかも掲載場所が凄くて、新橋駅なんだよね。
つまり電通本社の膝下。だから僕も見たんだけど。
巨人より阪神を愛する、大阪人のぼくの血が滾った。
電通はこれに答える?
無視するだろう。それが王者のやり方だろう。
でも大衆を味方につけるのは博報堂だ。
そして大衆の中には、企業の人たちもいるのだ。
もし自分が電通の企業広告をつくるとしたら?
何も浮かばない。
企業広告とは自らの意思表示だ。
「炎上したくない」しかぼくには言語化されたものは伝わってこない。
業界のルールでは、系列が違う会社のもの同士は仕事ができない。
競合会社だからね。
それは正解だが、
別解があるのなら、この人たちと仕事がしたい。
ベジータが来たら、悟空とピッコロは共闘するのだ。
そんなことがあってもいいと思う。
心が震えることに、垣根はない。
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