イコンは、「その物語がどういう絵で記憶されるか」
という意味で僕は使っている。
ある物語を思い出そうとするとき、
何枚かのイコンで構成されるだろう。
それと、場所の関係の話。
イコンは、
場所と人物と行為とアングルで形成されると思う。
アングル(どこから見るか、どこからどこまでをフレームとするか)
を除いては、
全て脚本に書いてある。
シーンの柱、そこに誰が出るのか(香盤)、
ト書きにおいてだ。
脚本の重要な要素であるセリフは、
イコンに入ってこないね。
イコンは視覚の記憶であり、
聴覚の記憶ではないからだ。
人間の記憶は視覚が7割で、
あとは残りと言われている。
セリフよりも場面の方が記憶に残りやすいわけだ。
イコンは、ストーリーの重要なポイントであるべきだと、
僕は思う。
第一ターニングポイント、
第二ターニングポイント、
ミッドポイント、
事件発生の瞬間、
事件解決の瞬間、
主人公が生まれ変わる瞬間(カタルシス)、
などなどは、
イコンになるべきだと思う。
脚本にそう書いてなくても、
監督がそう撮るべきだと思う。
でも監督が意識していることを、
脚本家が意識しなくていい道理はない。
映画は撮影されてなんぼで、
小説ではない。
撮影されたものの設計図を考えるときに、
「どこがどのようなイコンとして記憶されるべきか」
を考えてないのは、
計算が足りないとしか言いようがない。
(そして、おそらく小説も同様だ。
絵が浮かぶのが、いい小説だからね)
いい絵がどういうものか、
についてここでは言及しない。
人物がただ突っ立ってこっちを見ているよりは、
アクションがあった方がいいのはいうまでもない。
ストーリーとはアクションの連鎖であり、
世界への作用のことだからだ。
その最も大事なアクションが、
記憶に残るべきだろう。
(例: ガンダムのラストシューティング、
ナウシカの金色の野に降り立つ場面)
さて。
今回のメインは、「場所」の話である。
どんな場所でそれが起こるのが一番いいか、
考えてるか?って話。
場所には意味があるからだ。
それはどこで起こるか?
なぜそこで起こるか?
どういう文脈で起こるか?
場所は文脈を持ち、記憶を持つ。
たとえば、
「東京オリンピックメイン会場の、
建設現場」
には特別な意味があるだろう。
ここでは、恐らく崩壊と建設の文脈での行為があると、
記憶に残りやすいだろう。
高層ビルの屋上や塔の上では、
「愚かな人類は高さを欲して、神に雷を落とされる」
ことを意識しない人はいない。
だから悪は高いところに上り詰め、
転落して死ぬことが多いわけだ。
それありきで、「どういう高いところ」を持ってくるか、
というのは工夫すべきことである。
ワンダと巨像の巨像の肩から悪役が落ちていってもいいし、
宇宙エレベーターの無重力地点で、地球軌道方向へ悪役が落ちて、
永久に軌道を回ることにしたっていいのである。
あるいは、
祭りの櫓からの転落死、
舞台の奈落への転落死、
長い階段から転げ落ちて死ぬ、
自ら作った舞台装置から転落死、
1センチの段差で転んで死ぬ、
などは、
特別な意味をそこに込めることが可能だろう。
これらは、ただ高いところから落ちて死ぬ以上の意味を持てるため、
イコンに特別な意味を加えられるわけだ。
ただ「会議室で握手する」とか「会議する」
なんて普通の絵じゃつまらない。
プールの中で交渉する(「トラフィック」)
絵にしたっていいわけである。
もしそれが平凡な絵になるならば、
「その文脈をもっとも示す、
もっとも劇的な(順の文脈と逆の文脈がある)
場所を選ぶ」
ことを考えるべきだ。
日本映画のポスターが糞ほど詰まらないのは、
「全員集合して、ただ立ってこっちを見てる絵」
しかないからである。
「物語のもっとも重要な場面を、
ネタバレに配慮しつつ、
主演の顔が見えるようなイコン」
を撮影してないからこういうことが起こるのだ。
(角川映画の件で言えば、
ぼくはポスタービジュアルはタイトルカット、
「ヨシオといけちゃんが楽しそうに野原を走る絵」
(原作の表紙、ただ突っ立っていたところから、
飛び出てきたような感じ)にするべきだと考えていた。
ところが、
「現地に派遣されたカメラマンが、
映画撮影を邪魔しないように盗み撮りした写真」
しか素材がないため、その場面のいいスチルはなかった。
結果、
「映画撮影時間に余裕があり、スチルカメラマンが撮れた、
各出演者の上半身ショット」でコラージュされることになる。
おかしいでしょ。
メインビジュアル撮影時間は、映画撮影に組み込まれるべきで、
それ用に再撮影してもいいでしょ。
手抜きも甚だしいし、あとから決めるってどういうこと。
二度とここの宣伝部とは仕事しない)
なにがそのメインビジュアルになるべきかは、
そのストーリーがどういうイコンで形成されているかによる。
そのイコンを構成するのは監督の仕事でもあるが、
そもそも脚本には、
場所、出演者、小道具、行為が書いてあるわけだ。
ストーリーの流れを変えずに、
場所を変えることは実は簡単だ。
なぜそこにいるのかがうまく辻褄が合えば、
どこへでも行ける。
場所こそが、
イコンの鍵を握っていると言っても過言ではない。
たとえば、
映画版「蜜蜂と遠雷」のメインイコンはなにであるべきか?
「黒いドレスの主人公がコンサートホールでピアノ演奏していて、
そのバックに黒雲が光った遠雷になっていて、
観客席に雨が降り続けている絵」
かベストだと思う。
2019年10月27日
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