2019年10月27日

場所とイコン

イコンは、「その物語がどういう絵で記憶されるか」
という意味で僕は使っている。
ある物語を思い出そうとするとき、
何枚かのイコンで構成されるだろう。

それと、場所の関係の話。


イコンは、
場所と人物と行為とアングルで形成されると思う。

アングル(どこから見るか、どこからどこまでをフレームとするか)
を除いては、
全て脚本に書いてある。

シーンの柱、そこに誰が出るのか(香盤)、
ト書きにおいてだ。

脚本の重要な要素であるセリフは、
イコンに入ってこないね。

イコンは視覚の記憶であり、
聴覚の記憶ではないからだ。

人間の記憶は視覚が7割で、
あとは残りと言われている。
セリフよりも場面の方が記憶に残りやすいわけだ。


イコンは、ストーリーの重要なポイントであるべきだと、
僕は思う。

第一ターニングポイント、
第二ターニングポイント、
ミッドポイント、
事件発生の瞬間、
事件解決の瞬間、
主人公が生まれ変わる瞬間(カタルシス)、
などなどは、
イコンになるべきだと思う。

脚本にそう書いてなくても、
監督がそう撮るべきだと思う。
でも監督が意識していることを、
脚本家が意識しなくていい道理はない。

映画は撮影されてなんぼで、
小説ではない。
撮影されたものの設計図を考えるときに、
「どこがどのようなイコンとして記憶されるべきか」
を考えてないのは、
計算が足りないとしか言いようがない。

(そして、おそらく小説も同様だ。
絵が浮かぶのが、いい小説だからね)

いい絵がどういうものか、
についてここでは言及しない。

人物がただ突っ立ってこっちを見ているよりは、
アクションがあった方がいいのはいうまでもない。
ストーリーとはアクションの連鎖であり、
世界への作用のことだからだ。
その最も大事なアクションが、
記憶に残るべきだろう。
(例: ガンダムのラストシューティング、
ナウシカの金色の野に降り立つ場面)


さて。
今回のメインは、「場所」の話である。
どんな場所でそれが起こるのが一番いいか、
考えてるか?って話。

場所には意味があるからだ。


それはどこで起こるか?
なぜそこで起こるか?
どういう文脈で起こるか?

場所は文脈を持ち、記憶を持つ。
たとえば、
「東京オリンピックメイン会場の、
建設現場」
には特別な意味があるだろう。

ここでは、恐らく崩壊と建設の文脈での行為があると、
記憶に残りやすいだろう。

高層ビルの屋上や塔の上では、
「愚かな人類は高さを欲して、神に雷を落とされる」
ことを意識しない人はいない。
だから悪は高いところに上り詰め、
転落して死ぬことが多いわけだ。

それありきで、「どういう高いところ」を持ってくるか、
というのは工夫すべきことである。
ワンダと巨像の巨像の肩から悪役が落ちていってもいいし、
宇宙エレベーターの無重力地点で、地球軌道方向へ悪役が落ちて、
永久に軌道を回ることにしたっていいのである。
あるいは、
祭りの櫓からの転落死、
舞台の奈落への転落死、
長い階段から転げ落ちて死ぬ、
自ら作った舞台装置から転落死、
1センチの段差で転んで死ぬ、
などは、
特別な意味をそこに込めることが可能だろう。

これらは、ただ高いところから落ちて死ぬ以上の意味を持てるため、
イコンに特別な意味を加えられるわけだ。

ただ「会議室で握手する」とか「会議する」
なんて普通の絵じゃつまらない。

プールの中で交渉する(「トラフィック」)
絵にしたっていいわけである。

もしそれが平凡な絵になるならば、
「その文脈をもっとも示す、
もっとも劇的な(順の文脈と逆の文脈がある)
場所を選ぶ」
ことを考えるべきだ。


日本映画のポスターが糞ほど詰まらないのは、
「全員集合して、ただ立ってこっちを見てる絵」
しかないからである。
「物語のもっとも重要な場面を、
ネタバレに配慮しつつ、
主演の顔が見えるようなイコン」
を撮影してないからこういうことが起こるのだ。

(角川映画の件で言えば、
ぼくはポスタービジュアルはタイトルカット、
「ヨシオといけちゃんが楽しそうに野原を走る絵」
(原作の表紙、ただ突っ立っていたところから、
飛び出てきたような感じ)にするべきだと考えていた。
ところが、
「現地に派遣されたカメラマンが、
映画撮影を邪魔しないように盗み撮りした写真」
しか素材がないため、その場面のいいスチルはなかった。
結果、
「映画撮影時間に余裕があり、スチルカメラマンが撮れた、
各出演者の上半身ショット」でコラージュされることになる。
おかしいでしょ。
メインビジュアル撮影時間は、映画撮影に組み込まれるべきで、
それ用に再撮影してもいいでしょ。
手抜きも甚だしいし、あとから決めるってどういうこと。
二度とここの宣伝部とは仕事しない)



なにがそのメインビジュアルになるべきかは、
そのストーリーがどういうイコンで形成されているかによる。
そのイコンを構成するのは監督の仕事でもあるが、
そもそも脚本には、
場所、出演者、小道具、行為が書いてあるわけだ。

ストーリーの流れを変えずに、
場所を変えることは実は簡単だ。
なぜそこにいるのかがうまく辻褄が合えば、
どこへでも行ける。

場所こそが、
イコンの鍵を握っていると言っても過言ではない。


たとえば、
映画版「蜜蜂と遠雷」のメインイコンはなにであるべきか?
「黒いドレスの主人公がコンサートホールでピアノ演奏していて、
そのバックに黒雲が光った遠雷になっていて、
観客席に雨が降り続けている絵」
かベストだと思う。
posted by おおおかとしひこ at 14:15| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。