2019年10月30日

個人と運命

あなたは運命を信じる人だろうか。
信じない人は、ストーリーも信じないかも知れない。


運命などないという立場を取ると、
個人の人生はまるで単なる偶然で、
世界と作用して反作用を受けて、
必然と偶然によって変化をし続け、
そして死ぬだけのものに思える。

生まれたのも偶然、
そうなったのも偶然と自由意志の結果、
死ぬのも偶然。

人生に意味など特になく、
宇宙は無秩序へと熱的死へ向かうのみ。
宇宙が死んでも誰も気づかず、
どこかで生まれた虫が死んでも気づかないのと同じ。
人生は誰にも知られず、
偶然光って消えたただの光。

そのような、いわば冷めた視点にいるかも知れない。

いや、そんなことはない、
と考えるのが運命わ信じる人の立場だろう。
生まれたことには意味がある、
人生には意味がある、
死には意味がある。

宇宙はある種の秩序に基づいて動いていて、
誰かの大いなる意志のようなものがあり、
ただ消えるだけではなく、
まだ知られていないが、
きっと何か意味があるものだと思いたい。

二つの極論を出したが、
大抵の人はその間のどこかの立場にいるかも知れない。


ストーリーとは、
この運命論に立場が近いと思うわけだ。

個人の人生には意味があるし、
なにかを通した変化には意味があるし、
良い方向への変化をするべきだし、
俯瞰で見たときに、
この世界に意味があると思いたいし、
世界は良くなっていく方がいい。

そう考える人は、
ストーリーをそのように秩序づける。
あるいは、
そのような大きな流れを作ることが、
ストーリーを作ることだ。


個人の人生は無意味ではなく、何かしらの意味がある。
個人の死は無意味ではなく、何かしらの意味がある。
個人の必死や活躍には、何かしらの意味がある。
個人の辛さや逆境には、何かしらの意味がある。

そのように、ストーリーは作られる。


もし運命を信じない人がストーリーを作ったら、
個人の人生に意味がなく、死にも意味がなく、
ただ何かをして何かを終える、
何かを書いておしまいだ。
それは、ただの落書きやから騒ぎで、
何の意味もないと思う。

何の意味もないのが人生なら、そういうストーリーを書くかも知れない。


僕は意味がないとは思えない。
人間の脳は、意味を見出すように出来ている。
たとえ宇宙に意味がなくとも、
人間は宇宙に意味を見出したい生き物である。

宗教と物語だけが、
それに意味を与える人類の発明である。

うまく出来てるやつが、広く広まる。
posted by おおおかとしひこ at 12:22| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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