2019年10月31日

「人間を描く」とは、「人間の変化を描く」ことである

「人間を描く」ということは独り歩きしがちな言葉だ。
字面だけ捉えて、
「いかにも人間的なリアルな、
あるいはそのキャラらしい魅力を描く」
と考えるのは間違いだと僕は思う。

なぜならそれば場面(時間軸を持たない)からだ。


ストーリーは時間軸を持つ。

事件が起こり、解決する。
その過程において、
さまざまなリアルで人間らしい反応を描くことが人間を描くことではない。

そこで行動して、なにかを乗り越えた後に、
変化する(大抵は成長する)ことが、
ストーリーにおける「人間を描く」こと、
と僕は考える。

場面だけの人間を描くのは、
ただの絵だと思う。

二時間かけて映画は人生を描く。
時間軸のある人生を描く。

人生で大事なのは、
どうであったかという点ではなく、
なにを成し遂げたかという跡だ。

そしてそれは、
(主観的に)簡単に出来たことなら日常で、
人生の意味にまでならない。
(主観的に)困難なことを乗り越えたからこそ、
(主観的な)偉業を達成できたのだ。

その冒険を描くのがストーリーだ。
だから、
冒険から帰還したとき、
人は変化している。
大抵、いい方向に成長している。

その様を、説得力あるように、
リアリティ溢れるように、
迫真に、
劇的に描くのが、
「人間を描くこと」だと僕は思う。

嘘くさくて、御都合主義で、
変化が不自然で、
限定的で一般性がなく、
心に響かないものは、
人間を描いたことにならないと僕は思う。


これは僕の「人間を描く」観だ。
一般に、誤解?されている、「人間を描く」観とは、
異なると思われる。

「人間が描けてない」というとき、
その場面場面に人間がいる気がしない、
リアリティがない、
などのような、非常に点での批判を指していることもあるし、
僕のような、
「人間はこのような時になにをなすべきか、
そのことによってどのような影響があり、
どのような責任の取り方があり、
それはどのような意味をもたらすのか」
が足りない、という批判を指していることもある。

僕がシンゴジラに人間が足りないというのは、
後者のことを言っている。
なぜなら、映画はCGではなく、
人間によって行われる芝居だからだ。
シンゴジラはB班の出来はいいが、A班の出来が文化祭レベルだ。
相殺してマイナス点だ。
だったらA班なしのシンゴジラを見たかった。
(それは金をかけた庵野ウルトラマンにしかならなかっただろう)

描くんならちゃんと描け。
出来ないなら中途半端はやめろ。

脚本家とは、その人間ドラマを構築する人のことを言う。

B班のことはB班がやればよい
(これにはカット割りや特撮や合成やCGなどの、
深くて面白い話が死ぬほどあるが、
脚本時にはそれにとらわれたら負けだ)。

A班のシナリオが、脚本だ。
posted by おおおかとしひこ at 10:55| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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