2019年11月01日

パロディ

同人販売活動的なことでテンションが上がってますが、
脚本論は脚本論で続けます。

パロディは創作か、という問題。


パロディされるものを知っていれば、
それはある種の娯楽になる。
モノマネ、揶揄、ただ真似して乗っかるだけ。

それはパロディされるものの消費でもある。
本体が勢いをなくせばパロディも減って行く。
モノマネが増えるのは、人気のバロメーターでもあるわけだ。


いつもの僕なら、
そんなものに意味はない、オリジナルをつくれ、
と裁断しておしまいだが、
「初心者の頃は有効」ということを書くべきだと思ったので書いておく。

まず作った気になることはとても有効だ。
模写の一種だと思うと良い。

しかしそれは、
「自分はパロディをやっているのである」
という自覚のもとにせよ。
それは巨人の肩に乗っかっているに過ぎない。
いつか地面に降りなければならないことは覚悟しておくべきだ。


パロディとオリジナルの間には開きがある。
中間をやってみよう。
パロディをするふりをして、揶揄や批判を加えるのだ。

たとえばユーチューバーを馬鹿にする意図で、
ユーチューバーのパロディ動画を作ることは、
すぐにでもできるだろう。

いかに「よくあるユーチューバー」を創作できるか、
いかに「よくある言い回しや展開」を創作できるかが、
その鍵となるだろう。


同様に。

物語に関してもやってみればよいのだ。

それは、王道のパターンを確認することになる。
こういう時はこういうのがよくあるよね、
という嗅覚を鍛えることになる。

キャラクターや展開や設定に関しても同様である。
よくあるのを集めて、批評的にやってみると、
それがどういうものかよく分かる。
模写というのはそういうものだ。

で、じゃあ創作的にやろうとすると、
すぐ逆張りをする人がいる。
王道はこうだから、その逆をすると驚くだろうと。
その逆張りしてる俺カッケー、
突っ張っている俺カッケー、
という反抗期のようなものだ。

やったことのない人はやっておきなさい。
これは成長期にかかるはしかのようなもので、
これにかからないと次へ行けないので。

逆張りを何度かやると、
逆張りもパロディの一種だと言うことに気づいてしまう。
なぜなら、パロディされるものがありきで、
逆が存在するからだ。
逆張りすること自体が、大元の存在を認めていることになるわけだ。

オリジナルとは、その大元と関係ない、
別の体系を構築することだ。
逆張りしている時点で、巨人の肩にまだ乗っている状態なのだね。
あなたは地上から別の巨人にならなければならない。
むしろ、誰かに肩に乗られるベースにならなければならない。

誰かを揶揄しているのは、
所詮その誰かになれていないということだ。


青は藍より出でて藍より青しという。
パロディをアレンジしたり煮詰めていると、
ある日突然違うものになったりする。
大元と違う、別の作風になったりする。

そういう風に、何かから分かれて存在するのが、
普通のオリジナルの構築法だ。

何かには似てるけど、ちょっと違うよね、
あたりを目指せば、
何もない地平からビッグバンを起こすよりかは楽だ。

オリジナルを目指せ、というのは簡単だが、
過去にあった代表的なものを知らずに、
似てないというわけにもいかない。
ということで、長いロードが必要だ。


パロディは、やったことないならやってみなさい。
完コピ、アレンジ、それを利用した何か、逆張り、
までやってみなさい。
面白いそれの構造にまで立ち入って、理解できる。
深く理解してもいいし、
広く理解してもいい。
posted by おおおかとしひこ at 08:08| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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