同人販売活動的なことでテンションが上がってますが、
脚本論は脚本論で続けます。
パロディは創作か、という問題。
パロディされるものを知っていれば、
それはある種の娯楽になる。
モノマネ、揶揄、ただ真似して乗っかるだけ。
それはパロディされるものの消費でもある。
本体が勢いをなくせばパロディも減って行く。
モノマネが増えるのは、人気のバロメーターでもあるわけだ。
いつもの僕なら、
そんなものに意味はない、オリジナルをつくれ、
と裁断しておしまいだが、
「初心者の頃は有効」ということを書くべきだと思ったので書いておく。
まず作った気になることはとても有効だ。
模写の一種だと思うと良い。
しかしそれは、
「自分はパロディをやっているのである」
という自覚のもとにせよ。
それは巨人の肩に乗っかっているに過ぎない。
いつか地面に降りなければならないことは覚悟しておくべきだ。
パロディとオリジナルの間には開きがある。
中間をやってみよう。
パロディをするふりをして、揶揄や批判を加えるのだ。
たとえばユーチューバーを馬鹿にする意図で、
ユーチューバーのパロディ動画を作ることは、
すぐにでもできるだろう。
いかに「よくあるユーチューバー」を創作できるか、
いかに「よくある言い回しや展開」を創作できるかが、
その鍵となるだろう。
同様に。
物語に関してもやってみればよいのだ。
それは、王道のパターンを確認することになる。
こういう時はこういうのがよくあるよね、
という嗅覚を鍛えることになる。
キャラクターや展開や設定に関しても同様である。
よくあるのを集めて、批評的にやってみると、
それがどういうものかよく分かる。
模写というのはそういうものだ。
で、じゃあ創作的にやろうとすると、
すぐ逆張りをする人がいる。
王道はこうだから、その逆をすると驚くだろうと。
その逆張りしてる俺カッケー、
突っ張っている俺カッケー、
という反抗期のようなものだ。
やったことのない人はやっておきなさい。
これは成長期にかかるはしかのようなもので、
これにかからないと次へ行けないので。
逆張りを何度かやると、
逆張りもパロディの一種だと言うことに気づいてしまう。
なぜなら、パロディされるものがありきで、
逆が存在するからだ。
逆張りすること自体が、大元の存在を認めていることになるわけだ。
オリジナルとは、その大元と関係ない、
別の体系を構築することだ。
逆張りしている時点で、巨人の肩にまだ乗っている状態なのだね。
あなたは地上から別の巨人にならなければならない。
むしろ、誰かに肩に乗られるベースにならなければならない。
誰かを揶揄しているのは、
所詮その誰かになれていないということだ。
青は藍より出でて藍より青しという。
パロディをアレンジしたり煮詰めていると、
ある日突然違うものになったりする。
大元と違う、別の作風になったりする。
そういう風に、何かから分かれて存在するのが、
普通のオリジナルの構築法だ。
何かには似てるけど、ちょっと違うよね、
あたりを目指せば、
何もない地平からビッグバンを起こすよりかは楽だ。
オリジナルを目指せ、というのは簡単だが、
過去にあった代表的なものを知らずに、
似てないというわけにもいかない。
ということで、長いロードが必要だ。
パロディは、やったことないならやってみなさい。
完コピ、アレンジ、それを利用した何か、逆張り、
までやってみなさい。
面白いそれの構造にまで立ち入って、理解できる。
深く理解してもいいし、
広く理解してもいい。
2019年11月01日
この記事へのコメント
コメントを書く