2019年11月05日

最初の方は3人に人物を絞れ

どんな沢山登場人物が出てくる物語でも、
原則はこうだと思う。


最初の事件が起きる前、
あるいは起きてしばらく。

最初から登場人物が沢山出てくると、
覚えきれず混乱するから?
それもある。

僕は、
その3人の人間関係(2人かもだが)が、
その物語の基礎になる、
と考えている。

主人公、親友、ヒロイン。(ラブコメに多い)
探偵、依頼人、調査対象。(探偵、ミステリーなど)
主人公、憧れの先輩、親友。(スポーツ物とか)
主人公、幼馴染、新ヒロイン。(三角関係ものとか)
主人公、敵またはライバル、親友。(多くのストーリー)

色んなパターンがあるだろう。

どんなストーリーでもいいのだが、
これらがそのストーリーの人間関係の、
第一印象を握っているということで、
僕はこれらをベースに、
人はそのストーリーを見ると思うのだ。

真のボスや、すげえ味方とか、
アクの強い脇役などは、
あとで出てくる可能性が強い。
しかしそれらは、そのストーリーにおいての、
基礎の人間関係ではなく、
追加要素のように人は認識する。

たとえば北斗の拳なら、
ケンとリンとバットが、その基礎だと思う。
その後どんな濃いキャラが出てきても、
この基礎が揺らぐことはない。
(だから修羅の国編は、それが揺らいで詰まらなくなった。
アインやシャチが、「修羅の国編での基礎人間関係」
になるかと思われたが、そうはならなかったようだ)


この基礎の人間関係は、
そのストーリーのメインコンフリクトや、
メインの問題となるとは限らない。

むしろ、そのストーリーの軸足のようなもので、
そこを支点にして全ての流れを眺めていくことになるものである。

これがないと、
主人公一人が放り出されて、
恐らくは詰まらなくなる。
主人公が本音を打ち明ける相手はいないし、
主人公を無条件で助ける人もいないし、
主人公を逆から見る人もいない。
つまり、基準点がわからなくなる。

基礎の人間関係があると、
それらを基準として、
その後やってくる人間関係を見ていけばいいわけだ。

「幽遊白書」では、
幽助と蛍とコエンマがそういう関係かもだが、
バトルものになってからはそういうことがなくなったね。
長編でよくあるミスだ。
ストーリーがどこかへ行ってしまって、
帰ってこないような感覚は、
おそらくこれが原因だと思う。

短編であるところの映画では尚更で、
そのような無駄遣いをしている余裕などない。
サム・ライミ版のスパイダーマンでは、
サンドマンがラスボスになれば、
基礎の人間関係、すなわち、
ピーターと育ての両親(二人で一人としよう)とMJと、
サンドマンという、
円環を閉じるようなクライマックスになったはずなのに。

(それを察してか、MJ関係のエピソード(宇宙飛行士との婚約)
なんかを入れてきたが、とっ散らかっただけだった)


基礎の人間関係のトライアングルが、
ストーリーのベースになる。
そのベースを上手に使うことだ。
そのためには、最初に3人程度までを、
しばらく、きちんと描いておくと良い。

その後、ストーリーが始まって、
その時のことが使われて伏線になることもある。
そのベースの人間関係にクライマックスまで戻ってこないこともある。

そのベースの人間関係の、
まだ伏線として使ってなかった何かを、
ラストで使うことで、
大抵は日常世界への帰還を意味し、
円環を上手に閉じることが出来るだろう。


そのためには、
ベースをきちんと最初に描いておくべきで、
余計な登場人物や情報や設定を書いている場合ではないと、
僕は思う。

人の記憶力は高が知れている。
3人くらいで丁度いい。
posted by おおおかとしひこ at 00:43| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。