長年ストーリーとは何か、などと考えてきたが、
こうも言えると思ったので議論してみる。
必要な要素はみっつ。
魅力的な人間が主役であること。
冒険すること。
それが見事に成功することだ。
これらは絡み合い、独立要素ではない。
紐解いて行こう。
最後に成功しない話は、ストーリーではない、
と考えよう。
失敗して終わり、あるいは微妙な終わり方は、
ストーリーではないのか?
僕はどちらでもストーリーであるとは考えるが、
成功する話の方がベターだと考える。
なぜなら、そこから人は意味や教訓を見出せるからである。
困難な課題を成功させればさせるほど、
意味のあること、意義のあることをしたことになり、
それは教訓や模範となる。
意味や意義のないことをすることは、
ただのから騒ぎだ。
ユーチューバーの「やってみた」は、
「やってみた」だけだ。
笑えたりその場が潰せただけで、
何も示唆しまい。
いや、それこそ大失敗して、
「こんなことやっちゃいかんよ」という教訓にはなるかもしれない。
富士山から滑落したユーチューバーは阿呆の極みだが、
その阿呆の為に捜索費がいくらかかるのかは、
最終的に動画に貼りつくべき情報だと思う。
そこまでやってはじめて教訓や意義になると思う。
バッドエンドやビターエンドが、
そのような意味や意義を残せるならば、
つまりこういうことはやっちゃいかんなとか、
成功するには○○が必要だったのだ、とか、
そういうことが分かればまだ存在意義はあると思う。
しかし大抵のバッドエンドは、
「ただ逆張りでバッドエンドにしてみました、ザマアミロ」
だから教訓もクソも無かったりして、
だから面白くない。
(ちなみに究極のバッドエンドムービー、
アーレンダロノフスキーの「レクイエムフォードリーム」は、
ものすごい教訓を残す。「ヤクは怖い」だ)
また、
バッドエンドにするのは割と簡単なんだよね。
「ああ、この先どうなっちゃうのー」ってものを書くだけ書いて、
うっちゃりで終わらせられるからね。
理想は、
「この先どうなっちゃうのー」ってものを書いて、
しかも成功して終わるような、
予想もつかない顛末だと思う。
成功は、それが困難であればあるほど面白い。
成功は、それが困難であればあるほど価値がある。
その価値こそがテーマであり、
そのストーリーが存在する意味だ。
主人公が成功するまでの話がストーリーであり、
その成功で我々は何を思うべきか、
その成功にどんな意味があるか、
それを成功させる中で、もっとも意義のあることはなにか、
みたいなことが、テーマになる。
だから、
その道筋は冒険でなければならない。
簡単なミッションなら、成功してもしょうがないからだ。
「お湯を沸かす」ことの成功に大人ならばなんの意味もない。
しかし子供にとっては大冒険かも知れない。
その成功は、料理を作るとかもっと大きなことへの意味があるかも知れないし、
以前の失敗を覆すなにか、という意味合いがあるかもしれない。
冒険は、我々にとって、ではなく、
「その人にとっての最大の冒険」であることが重要だ。
そしてそれは、作者だけがわかっていることではなく、
観客全員が了解していて、
その冒険に固唾を飲み、
失敗しないか手に汗握るようになるべきである。
手に汗握らないものは映画ではない。
映画は、崖を飛び越えることをする。
どんな崖か、どんな乗り越えかは、
そのストーリーによるわけだ。
だから、
冒険といっても、ナチスの秘宝をジャングルに探しに行くだけではない。
どういう人にとってのどういう冒険か、
がストーリーなのだ。
当然ながら、
その人にとって最も困難な冒険とは、
自分の弱点を克服しなければならない冒険だ。
命の危険、社会的地位の危険ばかりでなく、
「自分を失う経験」をする必要があるわけだ。
ナチスの秘宝と人食い人種だけでなく、
自分自身の弱さをどう乗り越えるかが、
ほんとうの冒険なのだ。
そしてそれは、成功するから価値があり、
どのように成功させたかが、
語り草となり、教訓となり、モデルケースとなるわけである。
勿論、宇宙大冒険や忍者や侍が出てきても冒険だし、
好きな子に告白するのだって冒険だ。
どのような冒険の種類かが、
「ジャンル」だと僕は考えている。
さて、
どんなに危険な冒険を、
うまいこと成功させたとしても、
知らない人の知らない成功は、
あまりグッとくるものではない。
逆によく知っている人の話なら、
大した冒険でなくても、
大した成功でなくても、
面白いしためになる。
だから、主人公は、
「最初は知らない人だけど、
そのうちよく知っているように錯覚するような人」であるべきで、
さらに最大の冒険の最大の成功になっていると、
ストーリーは最高になるのだ。
そのように主人公像をつくるべきだ。
勿論、
学級委員長のような、親から褒められる人にしてもいいし、
陽キャの人気者にしてもいいし、
逆にごく普通の人にしてもいいし、
誰からも嫌われる人にしてもいい。
主人公は「好かれる人」であるべきだが、
好ましいタイプであるとは限らない。
好かれる好かれないよりも大切なことは、
「人間的魅力があること」だ。
人間的魅力とは何かは、
ここでは追求しない。
どんな人間を魅力的だと思い、
どんな人間を上手く描くかは、
それこそ作家性というものだからだ。
ただ言えるのは、受けるキャラだけで作った話は、
薄っぺらいということだけだ。
そもそもそれは冒険をしていないからね。
ということで、
魅力ある人間が、
冒険し、
そして成功する。
これがストーリーだ。
冒険には動機がある。目的がある。
なんとなく冒険には出かけないし、
目的がなければ冒険もしようがない。
一人で冒険してもストーリーにはならなくて、
(山登り小説などでは時々あることだけど)
かならず誰かが邪魔したり、協力したりする。
敵や味方の存在だ。
人間は社会と切りなはしては存在できないので、
社会と必ず軋轢がある。
冒険と軋轢が、ストーリーの真ん中にいるわけである。
軋轢の末の、具体的対立や衝突や揉め事をコンフリクトという。
ストーリーとは何か?
魅力的な人間の、成功した冒険のことである。
ついでにいうと、
ストーリーを見る前は、
「魅力的な人間の、成功する冒険」であるべきだし、
ストーリーを見ているときは、
「魅力的な人間の、成功しそうな(いやしかし失敗するかもな)冒険」であるべきだし、
ストーリーを見た後は、
「魅力的な人間の、成功した冒険」
であるべきだと考えている。
2019年11月13日
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