2019年11月13日

ストーリーとは、「魅力的な人間の、成功した冒険」である

長年ストーリーとは何か、などと考えてきたが、
こうも言えると思ったので議論してみる。


必要な要素はみっつ。

魅力的な人間が主役であること。
冒険すること。
それが見事に成功することだ。

これらは絡み合い、独立要素ではない。
紐解いて行こう。


最後に成功しない話は、ストーリーではない、
と考えよう。
失敗して終わり、あるいは微妙な終わり方は、
ストーリーではないのか?

僕はどちらでもストーリーであるとは考えるが、
成功する話の方がベターだと考える。

なぜなら、そこから人は意味や教訓を見出せるからである。
困難な課題を成功させればさせるほど、
意味のあること、意義のあることをしたことになり、
それは教訓や模範となる。

意味や意義のないことをすることは、
ただのから騒ぎだ。
ユーチューバーの「やってみた」は、
「やってみた」だけだ。
笑えたりその場が潰せただけで、
何も示唆しまい。
いや、それこそ大失敗して、
「こんなことやっちゃいかんよ」という教訓にはなるかもしれない。
富士山から滑落したユーチューバーは阿呆の極みだが、
その阿呆の為に捜索費がいくらかかるのかは、
最終的に動画に貼りつくべき情報だと思う。
そこまでやってはじめて教訓や意義になると思う。

バッドエンドやビターエンドが、
そのような意味や意義を残せるならば、
つまりこういうことはやっちゃいかんなとか、
成功するには○○が必要だったのだ、とか、
そういうことが分かればまだ存在意義はあると思う。

しかし大抵のバッドエンドは、
「ただ逆張りでバッドエンドにしてみました、ザマアミロ」
だから教訓もクソも無かったりして、
だから面白くない。
(ちなみに究極のバッドエンドムービー、
アーレンダロノフスキーの「レクイエムフォードリーム」は、
ものすごい教訓を残す。「ヤクは怖い」だ)

また、
バッドエンドにするのは割と簡単なんだよね。
「ああ、この先どうなっちゃうのー」ってものを書くだけ書いて、
うっちゃりで終わらせられるからね。
理想は、
「この先どうなっちゃうのー」ってものを書いて、
しかも成功して終わるような、
予想もつかない顛末だと思う。

成功は、それが困難であればあるほど面白い。
成功は、それが困難であればあるほど価値がある。
その価値こそがテーマであり、
そのストーリーが存在する意味だ。

主人公が成功するまでの話がストーリーであり、
その成功で我々は何を思うべきか、
その成功にどんな意味があるか、
それを成功させる中で、もっとも意義のあることはなにか、
みたいなことが、テーマになる。

だから、
その道筋は冒険でなければならない。

簡単なミッションなら、成功してもしょうがないからだ。
「お湯を沸かす」ことの成功に大人ならばなんの意味もない。
しかし子供にとっては大冒険かも知れない。
その成功は、料理を作るとかもっと大きなことへの意味があるかも知れないし、
以前の失敗を覆すなにか、という意味合いがあるかもしれない。

冒険は、我々にとって、ではなく、
「その人にとっての最大の冒険」であることが重要だ。
そしてそれは、作者だけがわかっていることではなく、
観客全員が了解していて、
その冒険に固唾を飲み、
失敗しないか手に汗握るようになるべきである。

手に汗握らないものは映画ではない。
映画は、崖を飛び越えることをする。
どんな崖か、どんな乗り越えかは、
そのストーリーによるわけだ。

だから、
冒険といっても、ナチスの秘宝をジャングルに探しに行くだけではない。
どういう人にとってのどういう冒険か、
がストーリーなのだ。

当然ながら、
その人にとって最も困難な冒険とは、
自分の弱点を克服しなければならない冒険だ。
命の危険、社会的地位の危険ばかりでなく、
「自分を失う経験」をする必要があるわけだ。
ナチスの秘宝と人食い人種だけでなく、
自分自身の弱さをどう乗り越えるかが、
ほんとうの冒険なのだ。

そしてそれは、成功するから価値があり、
どのように成功させたかが、
語り草となり、教訓となり、モデルケースとなるわけである。

勿論、宇宙大冒険や忍者や侍が出てきても冒険だし、
好きな子に告白するのだって冒険だ。
どのような冒険の種類かが、
「ジャンル」だと僕は考えている。


さて、
どんなに危険な冒険を、
うまいこと成功させたとしても、
知らない人の知らない成功は、
あまりグッとくるものではない。

逆によく知っている人の話なら、
大した冒険でなくても、
大した成功でなくても、
面白いしためになる。

だから、主人公は、
「最初は知らない人だけど、
そのうちよく知っているように錯覚するような人」であるべきで、
さらに最大の冒険の最大の成功になっていると、
ストーリーは最高になるのだ。

そのように主人公像をつくるべきだ。

勿論、
学級委員長のような、親から褒められる人にしてもいいし、
陽キャの人気者にしてもいいし、
逆にごく普通の人にしてもいいし、
誰からも嫌われる人にしてもいい。

主人公は「好かれる人」であるべきだが、
好ましいタイプであるとは限らない。
好かれる好かれないよりも大切なことは、
「人間的魅力があること」だ。
人間的魅力とは何かは、
ここでは追求しない。
どんな人間を魅力的だと思い、
どんな人間を上手く描くかは、
それこそ作家性というものだからだ。

ただ言えるのは、受けるキャラだけで作った話は、
薄っぺらいということだけだ。
そもそもそれは冒険をしていないからね。


ということで、
魅力ある人間が、
冒険し、
そして成功する。
これがストーリーだ。

冒険には動機がある。目的がある。
なんとなく冒険には出かけないし、
目的がなければ冒険もしようがない。

一人で冒険してもストーリーにはならなくて、
(山登り小説などでは時々あることだけど)
かならず誰かが邪魔したり、協力したりする。
敵や味方の存在だ。
人間は社会と切りなはしては存在できないので、
社会と必ず軋轢がある。
冒険と軋轢が、ストーリーの真ん中にいるわけである。

軋轢の末の、具体的対立や衝突や揉め事をコンフリクトという。


ストーリーとは何か?


魅力的な人間の、成功した冒険のことである。

ついでにいうと、
ストーリーを見る前は、
「魅力的な人間の、成功する冒険」であるべきだし、
ストーリーを見ているときは、
「魅力的な人間の、成功しそうな(いやしかし失敗するかもな)冒険」であるべきだし、
ストーリーを見た後は、
「魅力的な人間の、成功した冒険」
であるべきだと考えている。
posted by おおおかとしひこ at 00:20| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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