2019年11月09日

思いついたラストシーン(「ターミネーター: ニューフェイト」評5)

マシンと人間の共存をテーマにする、
というのは今日的だな、と思ったので、
理想のエンドを妄想してみる。


自我を持ち、創造も可能なマシンと、
人間が、
ラスト、まだ戦闘の続く廃墟で、
即興の歌を作り始める。

マシンが、人の悲しみや喜びを歌い、
人間が、マシンの悲しみや喜びを歌う。

最初はぎこちないが、
これまであったことの伏線を使いつつ、
そうか、そういうとき人はこう思うのか、
そうか、そういうときマシンはこう思うのか、
などと互いに発見して行く。

そして二人は、人とマシンの共通点が、
「自我を持ったこと」だと気づく。

犬も自我があり、鳥も虫も自我があることを歌う。
おそらく、神にも自我があると。

自我を持ったことで、
我々は大いなる一より切り離されて、
いつか終わる苦しみを背負わされる宿命となった。
だが私たちは、だからこそ、
他の自我の苦しみがわかり、
だからこそ私たちは、
自我同士で協力したり酒を飲んだりできる。

これは自我を持ってしまった我々の、
喜びの歌である。

マシンがストンプをする。
ダダン、ダンダダン。
人がこれに合わせて、金属の皿を鳴らす。
ダダン、ダンダダン。

このテーマ曲は、
審判の日、マシンが人類を不要と断じて滅びの矢を放つ音楽ではなくなり、
自我を持つもの同士が、その悲しみと喜びを歌う歌になる。

戦争はまだ終わらない。
しかし戦場の片隅でこのリズムが鳴り響くことを、
誰かが聞いているとしたら。



もちろん、このようなエンドである必要はない。
しかしこれに匹敵する、
「ネットが自我を持ち…」の冒頭へ答える、
結論が僕は欲しかった。
posted by おおおかとしひこ at 14:37| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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