2019年11月10日

絵になるということはどういうことか

絵になるということはとても難しい。
シチュエーションが美しいとか、
ドラマチックな場所だけでは、
絵になるわけではない。


そこで、どういうエピソードがあるか、
と関係している。
劇的なことが起こるとよい。
かといって、大袈裟なことが起こる必要性はない。
爆発したり、キスをしなくてもいい。
小さくても印象的なエピソードであればよい。
むしろ、そのほうが印象に残る。

たとえば、
「スパイダーマン:ファーフロムホーム」
では、
MJへの告白は大事な劇的なシーンだが、
ロンドンブリッジという素敵なシチュエーションでありながら、
あまり絵になるシーンではなかったと思う。

それは、告白と場所の文脈がリンクしなかったからではないか。
プレゼントに渡すべきベネチアンガラスが、
戦いのために割れてしまったということがあるわけだから、
それはベネチアでやるべきではなかったかな。
あるいは、ガラスでできた何かの場所、
壊れたどこかの場所(ロンドンタワー?)でも良かったか。

その告白にぴったりかどうかが、
絵になるかを決める。
しかも、「みたことのあるようなシチュエーションの使い方」ではいけない。

「まるで映画やドラマのようなこと」を、
みんなが真似してやりたくなるような、
「新しいエピソード」が求められるのである。

それは、場所の、新しい使い方を考える、
ということになるかもしれない。


絵になるかどうかは、
「その絵を見たら、その新しいエピソードを思い出す」
ということになっていればゴールだ。
つまり、その絵が、エピソードのイコンになればよいのだ。

その絵が、ドラマチックかどうかは関係ない。
そのエピソードが、ドラマチックかどうかと関係する。

そして、どんなにドラマチックなエピソードだろうが、
普通の、平凡な場所でやっていては絵にならない。

オリジナルなエピソード、
ドラマチックな絵、
そしてその新しい組み合わせ、
このみっつが「絵になる」ことの必要条件だと僕は思う。


最近、そういうやつをあまり見なくなった。
リアル指向だからだろうか。
「名画」という言葉が、映画で聞かれなくなって残念だ。
いい絵に、いいエピソードが加わらなければ、
こうはならないだろう。


脚本は、もちろん絵ではない。
しかしイコンになる場面ほど、
絵として記憶される。
小説でも同じだ。
いい場面は、絵が浮かび、絵で記憶されているものだ。

おそらく人間の記憶の仕組みと関係あると僕は考えている。
(捏造される偽の記憶もそうかもしれない)


ちなみにサムライミ版スパイダーマンでは、
さかさまのキスシーンが、イコンとなっている。
そんなものをつくりたいものだね。

ターミネーターでも、新作になる度に、
絵になる場面がなかったように思う。
液体金属や、それを液体窒素のタンクローリーで凍らせるところや、
溶鉱炉に入っていく様などの、
絵になる場面、絵として記憶される場面が、
乏しかったと思う。

何度も見ている、ということも影響しているかもしれないけど、
「ら何度も見るほどに絵になる場面」が少なくなりつつあることは、
批判の対象になると思うよ。


絵になる場面ってどういうことだろう。
あなたは絵描きではない。
カメラマンでもない。

絵を描くのではない。
印象的な話を書くのである。
posted by おおおかとしひこ at 13:26| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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