僕が広告にもはやちっとも興味が湧かないのは、
主語が変わってしまったからだと思う。
いつのまにか、
今広告の主語は、その会社だ。
法人格というべきか。
僕が好きだったCMは、
80年代から90年代にかけてだが、
その時の主語はクリエイターだった。
クリエイターがプランナーか監督か、コピーライターかCDかは置いといて、
とにかくメッセージを投げて大衆とコミュニケーションするのは、
クリエイターだった。
クリエイターが思いついた面白い世界を楽しみ、
スポンサーはそれのタニマチのような関係だった。
「一応ウチの名前が乗る以上これとこれはやめてくれ」
というのはあったけど、
クリエイターのやりたいことがやれることだった。
それは、
クリエイターは時代の先端にいて、
大衆とのコミュニケーションに長けているからである。
クリエイターは木鐸でありカナリアだ。
時代と寝る人もいれば、
時代を先導する人もいる。
船の舳先にいる最も敏感な人がクリエイターだ。
コンプライアンスとか言うようになって、
企業はリスク回避を優先して、
主語は企業になったと思う。
企業はコミュニケーションの達人でもないし、
時代の流れも最先端で見ていないし、
次の風向きを見ているわけでもない。
だから、CMが詰まらなくなった。
保守的で、無難で、尖ってなくて、
守っていて、心を開いてない広告になった。
下手な人が主語になったからだ。
僕は上手な人が主語だった時代のCMが大好きで、
それは映画やドラマとなんら遜色のない、
真の娯楽フィルムであり、
真の芸術だと思っている。
残念ながら、
今は主語が違う。
ユニバーサル映画だったかな、
DVDの再生前に、
「劇中で描かれる意見は映画の作者のものであり、
弊社の主張ではない」という但し書きが出る。
阿呆かと思った。
関係ないと楔を打つのも、作者たちをなんだと思ってるんだ、
と思うし、
「作者を守るのが編集だ」という立場でもない。
クレーム回避は、ほんとうにリスク回避か?
「所詮映画なのに間に受けるべきでないでしょう」
とするのが、
全ての娯楽や芸術への正しい距離なのではないか?
社会の公器という言い方もある。
公然で猥褻物は陳列できない。
しかし紳士の娯楽として、
どう影響を受けようが、
影響を受ける方が馬鹿だと思う。
紳士の娯楽となるには、R指定をすればいいかもね。
たかが他人に影響を受けるような奴は、
まだまだ子供だということだ。
映画の作者は、脚本家または監督で、
配給会社ではない。
ましてや製作委員会でもないと考える。
しかし昨今、作者が曖昧になってきた気がする。
広告の主語は誰か?
その主語はコミュニケーションが上手く、
時代を先に導く、
表現力が豊かで、驚きや関心や深みを生み出す人であるべきだ。
映画も同じだと思う。
そして主語が集団になると、
平均ではなく最低値が、その集団のスタンダードになる。
僕らの出す最高値は、
最低値まで丸められて、
今クリエイターは息をしていない。
2019年11月12日
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