2019年11月12日

主語は誰か

僕が広告にもはやちっとも興味が湧かないのは、
主語が変わってしまったからだと思う。


いつのまにか、
今広告の主語は、その会社だ。
法人格というべきか。

僕が好きだったCMは、
80年代から90年代にかけてだが、
その時の主語はクリエイターだった。

クリエイターがプランナーか監督か、コピーライターかCDかは置いといて、
とにかくメッセージを投げて大衆とコミュニケーションするのは、
クリエイターだった。

クリエイターが思いついた面白い世界を楽しみ、
スポンサーはそれのタニマチのような関係だった。
「一応ウチの名前が乗る以上これとこれはやめてくれ」
というのはあったけど、
クリエイターのやりたいことがやれることだった。

それは、
クリエイターは時代の先端にいて、
大衆とのコミュニケーションに長けているからである。

クリエイターは木鐸でありカナリアだ。
時代と寝る人もいれば、
時代を先導する人もいる。
船の舳先にいる最も敏感な人がクリエイターだ。


コンプライアンスとか言うようになって、
企業はリスク回避を優先して、
主語は企業になったと思う。

企業はコミュニケーションの達人でもないし、
時代の流れも最先端で見ていないし、
次の風向きを見ているわけでもない。

だから、CMが詰まらなくなった。
保守的で、無難で、尖ってなくて、
守っていて、心を開いてない広告になった。

下手な人が主語になったからだ。


僕は上手な人が主語だった時代のCMが大好きで、
それは映画やドラマとなんら遜色のない、
真の娯楽フィルムであり、
真の芸術だと思っている。

残念ながら、
今は主語が違う。

ユニバーサル映画だったかな、
DVDの再生前に、
「劇中で描かれる意見は映画の作者のものであり、
弊社の主張ではない」という但し書きが出る。
阿呆かと思った。

関係ないと楔を打つのも、作者たちをなんだと思ってるんだ、
と思うし、
「作者を守るのが編集だ」という立場でもない。
クレーム回避は、ほんとうにリスク回避か?
「所詮映画なのに間に受けるべきでないでしょう」
とするのが、
全ての娯楽や芸術への正しい距離なのではないか?

社会の公器という言い方もある。
公然で猥褻物は陳列できない。

しかし紳士の娯楽として、
どう影響を受けようが、
影響を受ける方が馬鹿だと思う。
紳士の娯楽となるには、R指定をすればいいかもね。
たかが他人に影響を受けるような奴は、
まだまだ子供だということだ。


映画の作者は、脚本家または監督で、
配給会社ではない。
ましてや製作委員会でもないと考える。

しかし昨今、作者が曖昧になってきた気がする。

広告の主語は誰か?
その主語はコミュニケーションが上手く、
時代を先に導く、
表現力が豊かで、驚きや関心や深みを生み出す人であるべきだ。

映画も同じだと思う。


そして主語が集団になると、
平均ではなく最低値が、その集団のスタンダードになる。
僕らの出す最高値は、
最低値まで丸められて、
今クリエイターは息をしていない。
posted by おおおかとしひこ at 13:25| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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