完結前提と、どうなるか分からないタイプの、
二種類の物語がある。
それに応じて違う考え方があるかも知れない。
僕が前提としているのは、
映画脚本論だ。
二時間前後で完結するタイプだから、
完結前提だ。
オチまで考え抜いた前提で、
それありきの冒頭や展開を競う。
だから構成をきちんと組むし、
視点がよれないように主人公にフォーカスし続けるし、
展開の起伏を計算する。
テーマを中心にプロットを組み、
サブプロットとの配合を慎重に計算する。
それは、冒頭から結末まで、
ひとかたまりのものだから、
言えることかもしれない。
一方、「いつ完結するかわからない」
「どこまででも続けるつもりで、
ネタや人気がなくなったら適当に終わり
(打ち切りを含む)」
というタイプの物語もある。
これは僕の考える物語ではない。
オチに責任が取れず、適当になっていると思う。
勿論理想は映画脚本のような形で、
頭から尻まで背骨が通ったものであるべきだけど、
様々な事情でそういかないものもある。
久しぶりに風魔の原作を読んだのだが、
あの勢いは、「後先など考えず、今一番面白いものを出す」
という刺身のような新鮮さが売りだと思った。
そしてそれは、
刺身が供給できなくなったところで生き絶える運命と、
裏腹なのかもしれない。
かつてファイアパンチを酷評したが、
それは完結する物語から見た批評に過ぎず、
「今面白ければそれでいいじゃねえか」派から見たら、
お門違いかもしれない。
でも僕は、いっとき夢を見させるならば、
その尻も拭くべきだと思うんだよな。
だから、脚本理論的におかしな作品については、
これからも噛み付くべきだと考えているけど。
風魔は凄い勢いの、大変惜しかった作品で、
幸福にオチをつけられた前作リンかけとは、
対極的な存在だ。
(そして星矢のように大作にもなれなかった)
だから僕は是非ともきちんとオチをつけたくて、
そのための勉強を自習しているのかも知れないが。
オチとはなにか?
そのための前振りとはなにか?
そのストーリー全体で、どういうことを言おうとしているのか?
それが整理されていない限り、
全体のディテールなど決まりようがない。
しかしオチを決めずに走り出す話は、
ディテールありきで始めてしまっていて、
前振りやオチはあとで考える、
みたいなことだ。
完結できない病の人は、
前者の方法論でやってなくて、
後者の方法論でやってるからじゃないかな。
そりゃあ打ち切りエンドにしかならないよな。
2019年11月14日
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