2019年11月16日

何故○○をしなかったのか

あとからは何とでも言えるが。

あれ?これ変じゃね?
なんで○○をしないの?
ってことが、現実でもストーリーの中でもあるものだ。


現実の場合、
○○を知らなかった、
○○のことは全く気づいていなかった、記憶から飛んでいた、
○○を知っていたにも関わらず、別の選択肢で頭が一杯だった、
パニックだった、
認知症だった、気が狂っていた、
判断ミス、
などのことは、
稀によくあるものだ。

人間の知力というのは常に同じ精度を保つ保証がない。
うっかり何かを忘れたり、
「今何しに台所へ行ったんだっけ?」
なんてこともある。

でもそれは現実にあったことなんだから、
「現実にあったことなんだからしょうがないじゃない」
と開き直ることが可能だ。


だが、物語の世界ではそうはいかない。

○○をしなかった理由が、
曖昧ではいけない。

それは、
○○を知らなかったから、
パニックに陥っていたから、
○○以外の選択肢、△△に夢中で気づかなかったから、
などの理由が必要なのだ。

最初にあげた現実の理由は、
すべて「主観による理由」ということに注意しよう。
「自分が○○に気づかなかったから」が現実だ。

しかし物語は三人称である。
「(自分は○○に気づかないかもしれないのに)
あの人(他人)が○○に気づいてないのは、
普通に考えておかしい」
になるのだ。

つまり、
自分には甘くて、
他人には厳しい、
ダブルスタンダードがあることに注意されたい。

(これは、
主人公を甘やかすメアリースーと似た原因かもだ)


他人が書いた他人の話には、
「○○に気づかないのはおかしい」と厳しく、
自分の経験した自分の話には、
「○○に気づかないことも、たまにあるだろ」と甘くなるということ。

一人称の危険は、そういうところにあるのだ。

だから、
一人称小説ではたまに、
「三人称形で見たらおかしな行動を、
その人の一人称主観で見れば妥当だと見せるための、
一人語りが延々続き、
それは俯瞰から見たら言い訳集になっている」
という箇所があると思う。
(私小説はつまり言い訳集だ)


映画や演劇の三人称形式では、
それは通用しないと理解しておくことだ。

「ストーリー上○○しないのはおかしい」と第三者から突っ込まれて、
「だって私がそうだったんだもん」と開き直るのは、
三人称と一人称を混同している証拠なのである。


これを防ぐにはどうしたらいいか?

自分の判断と、他の人の(一般の)判断に、
差があるかどうか、あるとしたらどの辺がどう違うのかを、
把握しておく必要があろう。

あるいは普通より頭が良いから全てに気づくことが出来る、
という人もいるだろう。
伝統的に作家になるのはこのタイプで、
だからセンセイと呼ばれるほどのIQがあるのである。

そこまでIQが必ずしも必要かどうかは分からない。
IQが高くたってダブルスタンダードの人もいる。

結局は、自覚と分離の訓練しかないと思う。


何故○○をしなかったのか。
三人称形式では、明確な理由が求められる。
それが納得が簡単にいき、
次に起こることへ必然的に繋がれば、
「この作者はわかっている」
と、皆は信用してくれるだろう。

三人称とは客観である。
すべてが曝け出され、すべてに理由がつく。
自明ではない主観的理由が介在してはならないのだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:57| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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