2019年11月25日

好きな話を書くだけで良いか

好きなのを書いていて、心が満たされているならそれでも良い。
同好の士と集まり、好きなものを愛でるのもよくあること。

でもそれは、「好きな人」が全員集まったらそれでおしまい。
プロのお話は、「嫌いな人/興味のなかった人」をも、
好きにさせる力があるべきだ。


好きなキャラや好きな場面や好きな設定だけを、
つらつらと書いてるだけの話は、
変化が存在しない。

Aからまるで全く違うBへ変化するのが、
お話の醍醐味だ。

Aが全く好きでなかったのに、
Bに変化するあたりでは好きになっている、
ようにするのが本物である。

それは、感情移入という作用によって行われる。
感情移入は、最初から好きなものに移入するのではない。

最初は好きでも嫌いでもなかったものが、
ストーリーが進むにつれて、
彼/彼女の事情がわかり、
彼/彼女のしようとすることに、
いくばくかの同情/味方をすることだ。

そのうち、自分と似たような所があったり、
好きだなと思えるポイントを見つけて、
徐々に好きになっていくことである。

そして、
彼/彼女がストーリー全体を経て変化し終えた時、
その変化に好きになることをいう。


このことを実感するには、
ドラマ風魔の小次郎を見るのが良い。
最初は面白あんちゃんだった山猿小次郎が、
最終回ではひとりの男として立派に見え、
中の人をも好きになってしまっているだろう。
最初はただのイケメン祭り、
しかもB級イケメン祭りにしか見えなかったチラシが、
気がついたら全員大好き!に変わっている、
その変化こそが感情移入である。


勿論、長いこと付き合わせるには、
毎度毎度人間的魅力が垣間見える必要があって、
ドラマ小次郎の場合は、
「おちゃらけている中にも、
何か冷めて考えている部分がある」
みたいな二重性を仕込んでいる。

ギャップが人の魅力になるのは明らかで、
つまりは二面性、二重性があれば、
人は惹かれる確率は高い。

PなのにQ、みたいな、真反対の要素をうまく取り入れると、
人間的に深みが出る。
甘くほっこりするうどんに、辛くてピリリとする七味を入れるような感じ。


さて、
結果からするとどちらも「好き」になってしまっているから、
そのプロセスを分離出来ないのだと思う。
「好きじゃなかったときから、
好きかもしれないと思った部分」について、
研究を試みると良い。
大抵は、「人に見せない部分を見せたとき」で、
その人がより深くわかったときではないか。

そのタイミングはいつ頃だったかも調べるといいかも知れない。
序盤というより、
中盤や終盤付近にかけてが多いと思う。
一目惚れではなく、
徐々に好きになってゆくのだ。


二次創作を僕が勧めないのは、
こうした、
「好きでもない人を好きにならせるほどの感情移入」
について、鍛えることが出来ないからだ。
勿論二次創作ジャンルの中に、そのようなものがあるかもだけど、
二次創作は「すでに好きだという前提」がメインだと思うので。
つまり、二次創作は「人を好きにならせる」ことについて、
なんらケアをしていないとすら言える。

人を好きにならせるには、
お洒落な格好をして、浮ついた言葉を言っていれば良いだろうか?

そうではない。

人が冒険をしたとき、危険に迫ったとき、
本当に見せる本性について描かないと、
「普段人に見せない自分」を見せることにはならない。
つまり、危険はきっかけだ。

勿論、危険が迫ったら日和るやつもいる。
それが悪役だ。
主人公と悪役を分ける決定的な部分は、
危険が迫ったときに魅力があるか、
ないかの差かも知れない。

(だから悪役は最初から強い。
強いから弱みを見せることはほとんどなくて、
主人公に敗北しそうなときに初めて危機に立ち、
愚かにも怯え始めるのだ)


ストーリーは事件とその解決が背骨だけど、
このような人間の魅力についてが、内臓だとも言える。

ただ好きなものに囲まれない見方で、
ストーリーを見て分析するのはオススメだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:12| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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