前記事の続き。
そりゃ両方なのだろうが、
畳む方が難しいので、
「物語を書くことは、畳み方のゲームである」
と断言してみよう。
なぜ畳むことが難しいかというと、責任が生じるからではないか。
仮に適当に終わりにしたら、
「今までのはなんだったんだ」となってしまう。
つまり、「今までのがなんだったのか」を、
畳まないといけないわけだ。
あるいは、
無理や矛盾のある解決をしてしまったら、
おかしな解決になる。
それらを含むわけにはいかない。
あるいは、
期待に応えた解決である必要もある。
「始まった時はこんなガッカリエンドを迎えることになると思わなかった」
などの失望に終わらせるわけにもいくまい。
つまり、
意味があり、矛盾なく、期待に応えることが、
とても難しいということになる。
(もちろん自分自身の、中途半端なエンドは嫌だという、
プライドの部分もあるだろう。
プライドは下げればなんとかなるかもしれない)
僕はよくシナリオをパズルにたとえる。
矛盾のない解決という一種数学的なことと、
期待に応えるという、単なるパズルを超えた感情的なことと、
それに意味があるという全体的なことと、
全てを穏便に解決するパズルだと、
僕は考えている。
それを日本語的にいうと、「落ち」ということだ。
落ちたとか落ちてないとかの感覚は、
冒頭の期待に応えているかどうか、
矛盾がないか、
そして今までのことに意味があったかどうか、
に関係する。
話を畳む事が苦手な人は、
この全部を同時にすることが苦手なのだろう。
だから「畳み方から逆算してプロットを組め」
などと先輩たちは忠告するのだが、
畳み慣れしていないとその真意はわからないだろう。
その段になって、「こういうことだったのか」
と判明することはよくあるわけだ。
大抵その時は火傷しまくって手遅れのことが多い。
どんなものでも上手く畳めるわけではない。
上手くいく手術といかない手術の差は、
それが上手くいくような構造をしているかどうかだと思う。
それが分かるには経験値が必要なので、
場数をとにかく踏めというのは、
そうした「これは畳める/畳めない」という経験を沢山積んでおけ、
ということでもある。
短編を沢山書けというアドバイスも、
短編なら畳めなくても、次の短編を書けばいいわけだ。
畳めなかったものに似ているが、
偶然畳めた構造に出会うこともあり、
どう違うのか自分の中で比較できる経験を積むことも、
数をやれば経験できる。
で、畳み慣れしていくと、
畳めない構造を畳めるように変形することも出来るようになるので、
より畳める機会が増えていく。
で、このときようやく、
風呂敷を畳めるように広げる、
ということの意味が実感としてわかることになるわけだ。
勿論、
畳み方が一通りしかない人もいるかもだ。
毎回全員死亡とか、毎回地球爆発とかは、
比較的どんなものでも可能な畳み方だ。
トーナメントに勝利したり、
プロジェクトの成功に終わったり、
敵を倒したり、
恋が実ったりするエンドは、
比較的誰でも出来る落とし方だろう。
畳み方のパターンも、
増やしていけるといろいろの対応力がつく。
とくに短編は落ちのバラエティにチャレンジしやすく、
「こういう落ちのやり方もある」ことに絶好だと思う。
これらのことを鑑みたうえで、
何を、どう畳むのか、考えていくことが、
完結へ向けてやるべきことだ。
ということで、
ゲームの内容は、
風呂敷を広げることよりも、
畳むことに力点が大きい。
2019年11月26日
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