後輩と会話していたとき、
「アナログディープラーニング」という言葉が出てきて興味深いと思った。
そもそも学習というものを、
人は理解していないんじゃないか、
などと思ったのだ。
沢山の経験をする。
成功も失敗もする。
ショートカットなしに、全工程を自分でやり、
人の助けやハックを使わない。
独習とも言えるこのやり方を僕は好む。
なぜなら、それらが終わったあとに、
「次にきた得体の知れないものを、
さばく判断力がつく」からだ。
映画が名作かどうか判断する力。
構造が、これがあるならこうなるだろうという予測。
テーマ性にこうすれば落ちるのに、という判断。
これらは、「なんとなくこういうものだから」
という形のないものを、形のあるようなものとして、
判断する力だ。
ディープラーニングはこれを機械的に模したもので、
アナログディープラーニングと言われるとは思わなかった。
ディープラーニングは膨大な学習時間を必要とする。
アルファ碁は数か月休みなしでスパコンをぶん回して学習した。
人間の学習は睡眠や休息や現実逃避が必要なぶん、
とても時間がかかるだろう。
どんなにモチベーションがあっても、
同じことの学習に、一年以上かかるのではないだろうか。あと忘れるしね。
しかしそれが家庭用PCで再現できるかというと疑問で、
相当計算速度がないと足りないと思われる。
それに比べれば、人間の学習は速いほうじゃないかね。
さらに人間の場合、「他との関連」で考えることも出来る。
アルファ碁は碁の盤面しか判断できないが、
映画を学習すれば、
小説や漫画や、絵画や音楽やファッションについて、
ある程度応用できるようになる。
もちろん、人生や哲学にも応用できる。
フレーム問題だ。与えられたフレームでしか、
ディープラーニングは通用しない。
で。
最近の学習はどうやっているのか知らないが、
若者はショートカットを覚えようと、
ライフハックだけしようとしていることが多いと思った。
「よくわからないから、楽な方法だけ、正解だけ教えて」
なんて感覚を感じる。
「よくわからないことを、考え続けて、
現在はここまで」
という状態に、慣れていないように思う。
つまり、テストと人生を同じと考えている節がある。
正解は正解、間違いは間違い、
というデジタル的な判断になっていて、
グレーの部分をどう考えるか、などに弱いと思う。
人生に正解がないことは、人生を少し生きればわかることだ。
学問を少し真面目にやれば、
分かっていることより分かっていないことのほうが多いことを知るだろう。
学問とは、膨大に分っていないことを知り、
研究とは、その一つくらいなら自分で解決できるのではないか、
あるいはここまでなら自分で解決できそうだ、
と思うことだと思う。
(もちろん失敗もあって、やっぱ分らなかった、
という落ちだってある。
研究は成果ばかり出しているわけではない。
「こういうことが、こういうことで分らなかった」ということも、
今後の指針になる、立派な研究だ。
研究はreseachやstudyであることを思い出そう)
で、
学習とは、そのような「体系の学習」であって、
それらのネットワーク的知識をもって、
「新しいことをどう判断するのか」
ということだと思うのだ。
これをアナログディープラーニングという後輩の言語感覚は、
最近の若者の典型ではないかなあ、
と思ってしまったので。
ディープラーニングが証明したことは、
「結局、学習するには、膨大な時間がかかる」ことと、
「学習した結果は、解析できない
(人に説明するほどの美しい構造をしておらず、
要素抽出が出来ない)」
でしかないと思う。
専門家一人を養成したが、会話できないので、
合否のランプがデジタルで点くか点かないか、
いうマシンがひとつできたに過ぎない。
で、人間の学習とは、
ひたすらこれをやることなんだよね。
頭の悪い人は、
知識とは一対一対応テーブルを作ることだと思っている。
問いと答えのペアを覚えることだと。
これはもう機械に勝てないし、そもそもそれは知識ではない。
それはただのメモリである。
あるものが来たときに、
「これはこうだろう」という予測と、それがおおむね正確なことが、
専門家の知識や判断というものだ。
それって、結局、
膨大な時間をかけて自分でやった結果、
言葉にならない本質的な何かが、
自分の中にたまっている、ということなのだ。
僕はそれをノウハウの形で出力し続けているが、
それの前に先立つ判断力のようなものを、
学習で醸成するのである。
ひとことでいうと、センスということになる。
センスはどうやって身につけるのか。
膨大にやることでしか身につけられない。
正解不正解を繰りかえして、
自分で磨いていくしかない。
センスは、「それに費やした時間」の別名かもしれない。
どんな人に聞いても、
「膨大に時間をかけること」と言うだろう。
絵のうまい人は、ずっと描いている。
一万時間まずやれば、
百万時間やれるかどうかわかる。
(向いている人は苦も無くやる。一万時間やる前に9割脱落するわけだから)
好きこそものの上手なれというが、
結局ずっとやっている人だけが分る感覚というのがあって、
言葉になっていないそういうセンスを獲得することでしか、
新しいものは創れないと思う。
(逆に言葉になったものは、死んだセンスだけかもしれない)
アナログディープラーニングこそが学習だとしたら、
デジタルは、便利なディープラーニングが出来たから、
もう苦しまなくて済むぞとか、
あとはハックだけ覚えていればいいや、
などと思う安易な人を増やし、
本気で学習しようとする人を疎外するかもしれない。
寺子屋で丸暗記させられていた時代のほうが、
学習について真面目だったかもしれないね。
ハックとかショートカットは悪魔の囁きで、
それで本当の学習、自得することが疎外されていることは、
覚えておいて損はない。
デジタルは人を幸せにしているだろうか。
学習をちゃんとやる人を、減らしていると思うのは僕だけかな。
(ネットで知識の数やリーチは増えたが、
ものになっている人は増えていないよね)
逆にAIの出現によって、スキルとセンスが明確に分離した、
とも言えますね。
どこかで見たツイートで、
「作業」とか「日人」で計算される仕事は、
全部AIやロボットでいずれ代替可能である、
なんてのがありました。
AIとロボットと黒人とバイトは、
経営者から見ればおなじというわけです。
いよいよディストピアめいてきたなあ。
イギリスでは、0時間労働というのが普通にあるそうです。派遣の一種ですが、雇用主の必要なときだけ来てもらう。明確な労働時間はありません。この労働形態はいずれ、日本に上陸するのではないかと思っています。既にディストピアは始まっているようです。
アマゾンの倉庫でルンバみたいなのが荷物仕分けをしているのを見たことがあるでしょうか。
人件費を下げた究極はあのようなものです。
で、我々物語作家は、
「この先このような未来がある」
を描くべきです。
不幸ならディストピア。これは見たことがあって詰まらない。
どういう幸福があるのだろう、
と、ある種のモデルケースを創作すると、
面白いかもしれません。
(昔のSFでは中央コンピュータを破壊して終わりか、
その支配圏から逃げて森へ還るエンドが多かったです。
さて、次の世代の代表的結末は?)
いたずらに嘆いたり、ニヒリズムに陥るのではなく、暗い世の中に明かりを灯すのが物語の役割である、と。そうですね、仰る通りです。
しかし、とても難しいです。これはいいと思っても鼻もひっかけてもらえない、振り返って見たらどうしようもなく陳腐、なんとかの劣化、なんとかの影響の未消化、と落ち込むことばかりです。
それでも、考えているときは面白いのです。
「考えている時は面白い」だけだと、自家中毒の趣味で終わってしまいますね。
厳しいようですが、楽しくない苦しいところをやってみると、
最終的に満足するかもしれません。
自ら鍛えられないと、伸びないので。
学校のようなところだと、同じ志の人はどう考えているのだろう、
などの直接的な話が出来るので刺激にはなりますが、
その学校の平均に収まってしまう馴れ合いもあります。
時々似たようなことをしてる人と話すのが、
いい距離感だと僕は思います。
また、自分がおもしろいと思っていることと、
他の人がおもしろいと思ってることは違うので、
意外なところが受けることもありますよ。
そういう意味でいろんな人に原稿を見せて、
いろんな意見を聞くだけでも、
自分の思う通りではないのだなあと知ることができます。
仰るとおりです。自分は評価を恐れているところがあります。それではだめだということがわかりました。磨きをかけるべく努力します。