「皆を変える作品」を作りなさい。
皆に受ける/自分が面白いものをつくる、
という二項対立がある。
この二項対立に巻き込まれてはいけない。
みんなは面白いと思い、俺は面白くないものがあって良いし、
みんなは面白くないと思い、俺は面白いものが編むっても良い。
それは主観的好みだ。
勿論、みんなと自分がシンクロするものがあっても良い。
面白いは主観である。
そして、実は客観でもある。
なぜなら、人は似た構造を持つからだ。
手足は二本あるし、
生まれて死ぬし、
オスメスいるし、セックスするし、モテ非モテがあるし、
家族に生まれて家族を作るし、
学校に行くし社会に出るし、
同じ日本社会(地球)に生きている。
これらの共通部分に訴える作品は、
身に迫る。
「原始的」だと言われる。
この身の迫り方を上手に利用すると、
大抵面白くなる。
「負け犬が勝つ話」は、
うまくできれば面白くなる。
あとは出来次第だ。
面白さが客観的である二つ目の理由は、
「これまでの歴史から面白さが決まっている」
ということがあることだ。
パクリは面白くない。
上手にパクって消化していれば面白くなることがある。
流行りのガワだけじゃ面白くないが、
一定期間命を永らえることがある。
これまでにないことをすると、
恐る恐る触る期間があるが、
一旦理解されると、オリジナルだと言われて評価される。
勿論、出来次第だ。
これまで面白かったものを超えないと面白いとは言われない。
面白さは、歴史の更新でもある。
我々は、北斗の拳やキン肉マンを超えなければならない。
皆に受けるものをつくることは、
「今面白いものをつくる」ことに視野を狭めてしまう。
歴史上面白いことや、
パッと理解されないが、分かると面白いものへの、
視野を狭めてしまう。
受けることやっときゃええんや、しょうもなくても、
と心が死ぬ選択肢をしてしまう。
「だってお前の面白いものだけやってても受けないから」
と、作者に責任を被せれば、
どんな作者だって萎縮してしまう。
多くの人を食わせなければならないと思ったら、
「自分は引いて皆の幸せを追求しよう」
などと、余計な責任感が顔を出す。
それはクリエイターの責任感ではない。
クリエイターの責任感とは、
皆に受けるものをつくることでもなく、
自分の面白いと思うものだけをつくることでもない。
皆を変えるものをつくることだ。
皆に受けるものは過去のものだ。
要するにパクリや同工異曲だ。
それはクリエイトではなく、
コピペやダビングや並べ替えや編集やキュレートだ。
自分の面白いものは、
動物的勘(主観)と、
人間や社会の共通点(客観)や歴史(客観)とが、
すべて考慮されたもののはずである。
これらは対立するのではなく、
同じ層に存在するだけだ。
そうではない。
今みんなが考えていることがあったとしたら、
それをどう変えるものになるのか、
がまだ見ぬ作品をつくる動機になるべきだ。
「これは世界を変える作品になる」で評価するべきだ。
世界を変えるには、
現状の世界を振り向かせなくてはならない。
振り向かせるにはどうすればいいかを考えれば良い。
陳腐なアイデアを使って振り向かせることもある。
ラノベっぽい枠組みならみんな見るから、
その中で本当にしたいことをやる、
というシステムもある。
(まどマギはそういうことだ)
「てんぐ探偵」の連載を女子高生主人公にしたら、
出版と話が出来ると言ったプロデューサーもいた。
(話を理解してないとしか思えなかった)
流行りの波に乗れば、流行る事もある。
タピオカなんて完全に波に乗った波でしかない。
あなたはn番目に出店するタピオカ屋になりたいのか?
あなたのするべきことは、
今のこの世界を、新しい方向に変えることだ。
じゃあ今のこの世界はどういうもので、
変えたあとはどういうものになるのか?
そのビジョンを文字にすること。
そして、それを実現するストーリーを書きなさい。
出来が良ければそうなるし、
出来が悪ければ詰まらないと言われるだろう。
僕はそれだけのことだと思う。
皆に受けるかどうか心配してるのは、
ただのキョロ充だ。
そんなやつが世界を変えられるわけがない。
世界を変える奴は、とんでもなく変なことを考えて、
それでも世間にうまくプレゼンした奴だ。
上手なプレゼンをする為に世界を知らなければならないし、
その世界にどうハンマーを振り下ろせばインパクトがあり、
その先どう誘導していき、興奮させ、
感動させれば世界が変わるかを、
あなたは語らなくてはならない。
2019年12月01日
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