「物議を醸すか/醸さないか」で、
よく事前チェックが入るようになった。
炎上するからやめてくれ、
無難な表現にまるめてくれ、
そもそもやめてくれ、などを守りとしよう。
じゃあ攻めとはどのようなものか。
僕は、
「多くの人がまだついてこれないような、
次の価値観」のことだと考えている。
尖った、エッジー、
誰も理解できない、
気狂い、変態、
などと形容されるかも知れない。
多くの人は理解できなくて、
少ない人だけがその価値を理解できるようなこと。
理解できないことは不満や不安だから、
つまりは多くの人を不安にさせるということだ。
不安であることや、
理解できないことを、
人は隠したがるので、
隠した末に「けしからん」と、
それを否定し始める。
そうやって炎上は起こり、尖ったものは淘汰される。
磔にせよ、燃やせ、焚書せよ、
と、馬鹿なる大衆は妄動するわけだ。
正しいから正しいとは限らない。
ガリレオは異端審問にかけられるし、
正論を吐いても炎上する。
わからないから炎上する。
あるものを正しく批判したって炎上する。
炎上は感情であり、
議論の外にいる。
これを避けるために、
大抵のプロデューサーは守りに入る。
不安にするな、安心させろと。
プロともなれば、
この、攻めと守りのバランスをうまく取ることを、
学ばねばならない。
若いうちはガリガリに攻めなさい。
攻撃力は若いうちにしかつかない。
歳をとれば、自然に守りも上手くなる。
格闘技や人生と同じだ。
極限まで尖りなさい。
誰も理解できなくても、正しいと信じることをまず作りなさい。
それが出来たら、
理解できる人が増えるように、
賛同者が増えるように、
少しだけわかりやすくしなさい。
あるいは、劇的にわかりやすい表現に変換すれば、
劇的に信者が増えるかも知れない。
教典は必ず優しい言葉で書いてある。
相対性理論ですら、方程式はシンプルだ。
尖ったものがまるくなれば、
受け入れる人は増える。
しかし丸く削り過ぎたら、
刺さるものも刺さらない。
その、削ったり丸めたりする、
やり方を変えてみなさい。
どれくらいまで尖れば、
どれくらいまでの人の心に、
どれくらいまで刺さるだろうか?
どれくらいまで丸めれば、
どれくらいの人まで理解できて賛同を得られ、
どれくらい詰まらなくなるだろうか?
これをグラデーションをつけて、
丸めたり尖らせたり出来るようになるべきだ。
今攻めるべき時か、守るべき時か?
あなたが攻めたいから攻めるのではなく、
攻めるべき時だから攻められるようになれば、
観客の心の状態を、
手に取るように理解しているということだ。
2019年12月02日
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