2019年12月02日

攻めるべきか、守るべきか

「物議を醸すか/醸さないか」で、
よく事前チェックが入るようになった。

炎上するからやめてくれ、
無難な表現にまるめてくれ、
そもそもやめてくれ、などを守りとしよう。

じゃあ攻めとはどのようなものか。


僕は、
「多くの人がまだついてこれないような、
次の価値観」のことだと考えている。

尖った、エッジー、
誰も理解できない、
気狂い、変態、
などと形容されるかも知れない。

多くの人は理解できなくて、
少ない人だけがその価値を理解できるようなこと。

理解できないことは不満や不安だから、
つまりは多くの人を不安にさせるということだ。

不安であることや、
理解できないことを、
人は隠したがるので、
隠した末に「けしからん」と、
それを否定し始める。

そうやって炎上は起こり、尖ったものは淘汰される。
磔にせよ、燃やせ、焚書せよ、
と、馬鹿なる大衆は妄動するわけだ。

正しいから正しいとは限らない。
ガリレオは異端審問にかけられるし、
正論を吐いても炎上する。

わからないから炎上する。
あるものを正しく批判したって炎上する。
炎上は感情であり、
議論の外にいる。

これを避けるために、
大抵のプロデューサーは守りに入る。
不安にするな、安心させろと。


プロともなれば、
この、攻めと守りのバランスをうまく取ることを、
学ばねばならない。

若いうちはガリガリに攻めなさい。
攻撃力は若いうちにしかつかない。
歳をとれば、自然に守りも上手くなる。
格闘技や人生と同じだ。

極限まで尖りなさい。
誰も理解できなくても、正しいと信じることをまず作りなさい。

それが出来たら、
理解できる人が増えるように、
賛同者が増えるように、
少しだけわかりやすくしなさい。

あるいは、劇的にわかりやすい表現に変換すれば、
劇的に信者が増えるかも知れない。
教典は必ず優しい言葉で書いてある。
相対性理論ですら、方程式はシンプルだ。

尖ったものがまるくなれば、
受け入れる人は増える。

しかし丸く削り過ぎたら、
刺さるものも刺さらない。

その、削ったり丸めたりする、
やり方を変えてみなさい。


どれくらいまで尖れば、
どれくらいまでの人の心に、
どれくらいまで刺さるだろうか?
どれくらいまで丸めれば、
どれくらいの人まで理解できて賛同を得られ、
どれくらい詰まらなくなるだろうか?

これをグラデーションをつけて、
丸めたり尖らせたり出来るようになるべきだ。

今攻めるべき時か、守るべき時か?
あなたが攻めたいから攻めるのではなく、
攻めるべき時だから攻められるようになれば、
観客の心の状態を、
手に取るように理解しているということだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:48| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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