2019年12月03日

問題、解決、障壁

この順でつくると間違いがない。
なかなかそうはいかないのだが、理想の作り方を書いておく。


まず問題を考える。
これは解決とペアだ。
どういう面白そうな問題があり、
それをどう見事に解決すれば面白いかを考えよう。

それは誰でもわかる方法で解決してしまっては面白く無い。
「知ってるわ」ってなるだけだからだ。
誰も思いつかない、
奇想天外なことで解決しよう。
物事の新しい解決方法でもいいし、
新しくはないが、それを解決する手段としては新しい、などでも構わない。

逆に、誰でもわかるのだが、
主人公たちだけは分らない、
というような解決の仕方もある。

それにさえ気づけば助かるのに、
みたいなやつだ。
これを「志村、後ろ!」方式とよぼう。
(もうこの世代がここを見ているとは思えないが)
専門用語でいうと、劇的アイロニーである。
この言葉は的確な訳語とは思えないので、
「観客は知っているが、主人公が知らない状況」
などのように考えると分り易いだろう。

たとえば、
「謝りさえすればあの人は許してくれるのに」
とか、
「右を選べば幸せになれるのに」
なんて状態だ。
それにどう気づくかが劇的なドラマになる場合もある。

とにかく、どう面白く解決するかは、
あなたの腕次第だ。
面白そうな問題と、その見事なペアを考えない限り、
ストーリーを思いついたことにはならない。

それをつくったとしてもまだ半分だ。
障害をつくろう。

そうでないと、「困った!」即「解決!」
となってしまって、
すぐに終わってしまうからだ。

ストーリーというのは、
浸る時間がおもしろいのだ。
不必要な引き延ばしはいらないが、
面白い引き延ばしは歓迎である。
その面白い引き延ばしをうまくつくって、
二時間程度に収めるのが映画の脚本である。

障害を作れば、
ストレートな解決でなくなる。
何かが邪魔をすればいい。

信号で向こうにいけない、でもかまわない。
坂が登れない、でも、夏まで待たないといけない、
でも構わない。

たいていは邪魔する人がいて、
それを倒さないと前に進めない。
それを敵とか、敵対者とかいう。

モノの障害を越えるのは比較的簡単だ。
一人で解決できることも多い。
人が障害になると、
ものごとは急に難しくなる。
だから、面白くなるわけだ。

あいつを出し抜いてやろうとか、
あいつを乗り越えてやろうとか、
あいつをぎゃふんといわせてやろうとかが、
描けることになる。
向こうも馬鹿ではないから、
その意図を察すれば、
バトルが起こることになる。
これをコンフリクトいう。

コンフリクトは定義が分りにくいが、
要するに障害とそのバトルのことである。

ただ真っすぐの解決では面白くないとき、
色んな紆余曲折があったほうが面白くなる。
その紆余曲折を考え出すわけだ。

西遊記で考えると分りやすい。
「西にありがたいお経を取りに行くこと」
が問題で、
「取ってきた」が解決で、
その間にある、いろんな妖怪退治や、
旅そのものが障害だ。

こんなふうに、
ストーリーそのものを俯瞰して、
単純に考えてみると、
どういう要素があるのか、
分り易く考えられるだろう。

逆に、
名作のシナリオから、
たったこの三つの要素を書きだしてみると、
どういう背骨なのか、見えやすいと思う。


障害はひとつとは限らない。
いくつもある。
それを並べて、
どういう起伏にしているかも観察することが出来るだろう。

これくらい大づかみにしてから、
細かいところを考えていくのである。

こういう障害があるなら、
最初に逆を見せておくべきだなとか、
こういう障害を越えるために、
登場人物のこういうスキルを用意しておくべきだとか。
いくつかの障害は整理されるべきだとか。

デッサンレベルだったストーリーの描像は、
こうやって試行錯誤とともに、
細かくなってゆく。
しかし背骨はかわらず、
問題、解決、障害があるだけである。

デッサンがしっかりしていない絵は、
どんなに細かく描きこんでも無駄だ。
面白い骨格がない話はディテールしか面白くないだろう。

そういうわけで、
骨格とディテールを行き来するためにも、
練習としての骨格を抽出したり、
骨格だけ入れ替える練習をしたりすることは、
とても勉強になる。

その為のもっとも基本的な部品は、
問題、解決、障害の、三要素だといえるだろう。



で、今自分のストーリーが面白く無いのは、
どこに原因があるかを、まず特定するのである。

問題が面白くないのか、
解決が面白くないのか、
障害とその乗り越え方が面白くないのか。

それがどこかわからない限り、
ストーリーのどこが面白くないかが特定できず、
ずっとどう直すべきかは分からなくなってしまうだろう。


そもそも面白くなさそうな問題はヒキが弱い。
その問題に巻き込まれた瞬間が面白くても、
問題そのものに興味を持てなければ、
最後までストーリーへの興味を失うに違いない。
(西遊記の「インドまでお経を取りに行く」自体は面白くないが、
ここに三蔵法師が「なぜそんなにまでしてお経が欲しいか」
を創作することができる。
それを感情移入できるようにつくると、
問題そのものの解決が気になることになる。
つまりそれは、おもしろいと引き込まれていることに成功したわけだ)

それを解決する仕方が微妙なら、
カタルシスがなく、
ずっと見てきた甲斐がなく、
見て損したと思われるだろう。

途中の障害が面白くないなら、
まあ許せる範囲だけど見てやるか、
なんてレベルに集中力が落ちるだろう。
それは結局、ストーリーには満足しないということだ。


どこが問題なのか、自分で診断できるようになっておくとよい。
自己診断自己手術みたいな、
ブラックジャックであるべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:39| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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