この順でつくると間違いがない。
なかなかそうはいかないのだが、理想の作り方を書いておく。
まず問題を考える。
これは解決とペアだ。
どういう面白そうな問題があり、
それをどう見事に解決すれば面白いかを考えよう。
それは誰でもわかる方法で解決してしまっては面白く無い。
「知ってるわ」ってなるだけだからだ。
誰も思いつかない、
奇想天外なことで解決しよう。
物事の新しい解決方法でもいいし、
新しくはないが、それを解決する手段としては新しい、などでも構わない。
逆に、誰でもわかるのだが、
主人公たちだけは分らない、
というような解決の仕方もある。
それにさえ気づけば助かるのに、
みたいなやつだ。
これを「志村、後ろ!」方式とよぼう。
(もうこの世代がここを見ているとは思えないが)
専門用語でいうと、劇的アイロニーである。
この言葉は的確な訳語とは思えないので、
「観客は知っているが、主人公が知らない状況」
などのように考えると分り易いだろう。
たとえば、
「謝りさえすればあの人は許してくれるのに」
とか、
「右を選べば幸せになれるのに」
なんて状態だ。
それにどう気づくかが劇的なドラマになる場合もある。
とにかく、どう面白く解決するかは、
あなたの腕次第だ。
面白そうな問題と、その見事なペアを考えない限り、
ストーリーを思いついたことにはならない。
それをつくったとしてもまだ半分だ。
障害をつくろう。
そうでないと、「困った!」即「解決!」
となってしまって、
すぐに終わってしまうからだ。
ストーリーというのは、
浸る時間がおもしろいのだ。
不必要な引き延ばしはいらないが、
面白い引き延ばしは歓迎である。
その面白い引き延ばしをうまくつくって、
二時間程度に収めるのが映画の脚本である。
障害を作れば、
ストレートな解決でなくなる。
何かが邪魔をすればいい。
信号で向こうにいけない、でもかまわない。
坂が登れない、でも、夏まで待たないといけない、
でも構わない。
たいていは邪魔する人がいて、
それを倒さないと前に進めない。
それを敵とか、敵対者とかいう。
モノの障害を越えるのは比較的簡単だ。
一人で解決できることも多い。
人が障害になると、
ものごとは急に難しくなる。
だから、面白くなるわけだ。
あいつを出し抜いてやろうとか、
あいつを乗り越えてやろうとか、
あいつをぎゃふんといわせてやろうとかが、
描けることになる。
向こうも馬鹿ではないから、
その意図を察すれば、
バトルが起こることになる。
これをコンフリクトいう。
コンフリクトは定義が分りにくいが、
要するに障害とそのバトルのことである。
ただ真っすぐの解決では面白くないとき、
色んな紆余曲折があったほうが面白くなる。
その紆余曲折を考え出すわけだ。
西遊記で考えると分りやすい。
「西にありがたいお経を取りに行くこと」
が問題で、
「取ってきた」が解決で、
その間にある、いろんな妖怪退治や、
旅そのものが障害だ。
こんなふうに、
ストーリーそのものを俯瞰して、
単純に考えてみると、
どういう要素があるのか、
分り易く考えられるだろう。
逆に、
名作のシナリオから、
たったこの三つの要素を書きだしてみると、
どういう背骨なのか、見えやすいと思う。
障害はひとつとは限らない。
いくつもある。
それを並べて、
どういう起伏にしているかも観察することが出来るだろう。
これくらい大づかみにしてから、
細かいところを考えていくのである。
こういう障害があるなら、
最初に逆を見せておくべきだなとか、
こういう障害を越えるために、
登場人物のこういうスキルを用意しておくべきだとか。
いくつかの障害は整理されるべきだとか。
デッサンレベルだったストーリーの描像は、
こうやって試行錯誤とともに、
細かくなってゆく。
しかし背骨はかわらず、
問題、解決、障害があるだけである。
デッサンがしっかりしていない絵は、
どんなに細かく描きこんでも無駄だ。
面白い骨格がない話はディテールしか面白くないだろう。
そういうわけで、
骨格とディテールを行き来するためにも、
練習としての骨格を抽出したり、
骨格だけ入れ替える練習をしたりすることは、
とても勉強になる。
その為のもっとも基本的な部品は、
問題、解決、障害の、三要素だといえるだろう。
で、今自分のストーリーが面白く無いのは、
どこに原因があるかを、まず特定するのである。
問題が面白くないのか、
解決が面白くないのか、
障害とその乗り越え方が面白くないのか。
それがどこかわからない限り、
ストーリーのどこが面白くないかが特定できず、
ずっとどう直すべきかは分からなくなってしまうだろう。
そもそも面白くなさそうな問題はヒキが弱い。
その問題に巻き込まれた瞬間が面白くても、
問題そのものに興味を持てなければ、
最後までストーリーへの興味を失うに違いない。
(西遊記の「インドまでお経を取りに行く」自体は面白くないが、
ここに三蔵法師が「なぜそんなにまでしてお経が欲しいか」
を創作することができる。
それを感情移入できるようにつくると、
問題そのものの解決が気になることになる。
つまりそれは、おもしろいと引き込まれていることに成功したわけだ)
それを解決する仕方が微妙なら、
カタルシスがなく、
ずっと見てきた甲斐がなく、
見て損したと思われるだろう。
途中の障害が面白くないなら、
まあ許せる範囲だけど見てやるか、
なんてレベルに集中力が落ちるだろう。
それは結局、ストーリーには満足しないということだ。
どこが問題なのか、自分で診断できるようになっておくとよい。
自己診断自己手術みたいな、
ブラックジャックであるべきだ。
2019年12月03日
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