2019年12月06日

喪失と再生

映画やドラマではよく人が死ぬ。

現実で人の死に直面する機会はほとんどない。
老人の穏やかな死に付き合う程度で、
映画やドラマのような死に付き合うことは、
平和な日本ではレアだ。
つまり、多くの人にとってリアリティがない。

じゃあなぜフィクションでは人が死ぬのか?


安易にショックを与えることが出来る、
という負の側面がある。

ストーリーを組んだり、
どんでん返しや伏線を組んだりするよりも、
実に簡単にショックや驚きを与えることができる。

だからよく使われる。

簡単にシリアスにできる。
深刻度や感情の振り幅を大きくできる。
(最初にギャグをやってから、殺せば良い)


だから、初心者の作ったストーリーほど、
人がよく死ぬのだと僕は思う。

あるいは、
自分の好きな物語で、キャラが死ぬところを体験して、
無意識にその真似をしているということもある。

深く考えた死というのはほとんどない。
何故なら死は理不尽で突然やってくるからだ。
必然性のないことが死である。


で、ここからが本題。

死で終わるだけでは物語ではない。
死が物語的なのは、
その死の周辺の非日常性やドラマチックさよりも、
そこからどう立ち直るのかの、
再生に焦点が当てられたときだ。

僕のはじめてのフィクションで体験した死は、
あしたのジョーの力石の死だが、
矢吹丈の再生は描き切れていないと僕は思う。
死のショックからジョーは立ち直り切れていない。
白木葉子もだ。
ホセメンドーサという「終わりのためのキャラ」を出しただけで、
カーロスリベラも使いこなせなかった。
あしたのジョーの後半戦は、
パンチドランカーのことも含めて、
死に魅入られただけのストーリーになってしまった。
「死ぬんだからそれまでを燃やそうぜ、
力石もそうだったろ?」
という割り切りに至るまで、
時間がかかりすぎた。

つまり、物語の焦点は、
「死のショック」に支配されてしまい、
「再生」まで行き着かなかったと言える。

あしたのジョーは力石の重力に引かれ、
そのまま墓の中に入って行った。
明日はなかった、というのが結論だ。

これは物語として不完全だと僕は考える。

死の意味を考え切れてないと思う。


ドラマ風魔に戻れば、
麗羅の死は初めから決まっていた運命(原作準拠)だ。
だからその振り幅をつくるため、
死をなるべく悲劇にしようとした。
同期のいい子で、
こんないい子が先に死ぬなんて、
という悲劇を作ろうとした。
相手は最強の武蔵で、
善戦したとしてもまるで歯が立たないようにした。
それは絶望をつくるためだ。

一旦底を作らないと、
そのあとの駆け上がりを作れないからだ。

駆け上がりこそが人のドラマであって、
沈むことはドラマではない。
沈むことはアクシデントであり、
人の本性ではない。
人の本性は、沈むことにはなく、
沈んだ時にどう駆け上がるかで決まると思う。

ドラマ風魔の場合、
それは風林火山の完成ということになっている。
(麗羅の「指導」がヒントになっていることも含め)

何を成し遂げたかで、
その人の価値は決まる。
(現実ではどうか不明だが、
少なくとも物語の中ではそうだ)

したことで本性が語られるわけだ。

つまり、
再生をどのようにしたかが、
その物語の価値だ。



死は悲劇である。
悲しい、辛い、喪失感。
そこに酔い、涙を流す快感もある。

僕はそれは好きではない。
悲しみをどう次に生かすかが、人生だと思う。
なかったことにはならないから、
それをどう意味のあることにしたのか、
ってことだと思う。


つまり、この再生を描けないのなら、
人を殺すべきではない。


ロッキーの晩年、
エイドリアンは死んだ。
ポーリーもだ。
ロッキー自身も死にそうになったし、ラストは死ぬかも知れない。
まだ彼らの死は、再生まで生かされていない。
「彼らの分まで生きる」じゃあ陳腐すぎる。
そうならないようななにかを僕は待っている。


キャラの死以外にも、似たようなことは出来る。

場所の死はよくある使われ方だ。
店の取り壊し、学校の取り壊し、実家の取り壊し、
公園の更地、などが心に来るのは、死だからだ。

物の死、たとえば廃盤決定とか、
最後の一個が壊れるとか。

形見の死(壊れるとか津波で流される)なんて、二回死ぬことも可能だね。


たとえば福島の死から、日本はまだ立ち直っていない。
大きな死からの立ち直りは、10年以上かかるかも知れない。
それで立ち直れば、ドラマになるわけだ。

死別はすべてのお別れの中で一番つらい。
物語には劇薬だ。
薬は、そのあと効いてはじめて薬である。

再生は、いのちの本質だ。
いのちをどう描くかが、作家の手腕ともいえる。
posted by おおおかとしひこ at 07:30| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ミステリで死が安直になることってありますかね?
事件性のある死は必ず犯人や謎を突き止めようって衝動になり替わるので素人でも簡単に衝撃、喪失、期待感を煽れる気がします

Posted by あ at 2019年12月06日 17:23
>あさん

ジャンルによりますが、トリックメインの場合、
殺人はただの小道具(マクガフィン)である可能性もありますね。
ドラマ寄りだと安直には扱わないでしょう。

ただ、探偵は仕事として殺人の解決をするだけなので、
クライアントの死とは距離を置いていると思います。
看護師や医者と同じで、一々落ち込まないようにしてるはずなので。
Posted by おおおかとしひこ at 2019年12月06日 18:27
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