2019年12月10日

どうすればアナに感情移入できたか(「アナと雪の女王」評3)

ダブル主人公のエルサとアナ。
エルサにはアイデンティティ探しという動機がある。
アナに動機がない。
だから感情移入しづらかった。


意図的に省かれていた可能性は否定できない。
「投影する主人公は空であるべき」
というジャンプ的な理論もある。

しかし僕は感情移入は投影ではないと考えるので、
空っぽの人物には感情移入できない。

冒頭、母親が寝物語を聞かせるとき、
アナの仕草は異常に可愛かった。
「いい子」の姉に対して、
いびきすら愛らしいキャラとして描かれていた。

大人になってからも、
「なんでも相談して」と、
立派な大人になっていて、
とても庶民派のいいキャラクターになっていた。

しかし感情移入と、
好きになるキャラクターは関係がない。

好きと感情移入を僕は分けて考えている。

好きなら感情移入(というか肩入れや贔屓)をすることもある。
しかし感情移入は、見知らぬ人や嫌いな人にもすることがある。

万人に愛されるキャラとしてアナは出来ていたが、
感情移入されるキャラとしての設計はなかった。

何が必要か。


動機だ。



なぜ彼女は冒険についていくの?
姉をまた一人にしたくないから?

そこが彼女自身の人生の動機?
彼女自身の目的はなんだろう?
プロポーズという大きな出来事はあるものの、
それはクリストフの問題であって、
「どうプロポーズを受けるのか」
というアナの問題ではない。

ということは、
「プロポーズをされた所からストーリーを始め、
その葛藤を物語化する」
ということもあり得たはずだ。

しかしその場合、コメディリリーフとしてのクリストフが勿体無いので、
それはやめるとして、
じゃあどうすれば彼女の「人生の問題」を創作できるか、
ということになる。

たとえば、
「優秀すぎる姉を持つ、妹のコンプレックス」
ならば、誰もが感情移入できるストーリーになるし、
その解決としての、
「Do the next right thing」は結論になりえる。
優秀な姉はいつもthe best right thingをする、
というコンプレックスがあれば、
「私は私にできることをする」
という自立は、姉からの精神的独立のドラマになりえる。

ということは逆算して、
「姉はチヤホヤされているが、
妹は常に蚊帳の外」
ということを描けば良い。

子供の頃のように雪あそびをしたいのに、
と思ったとしても叶わず、
エルサの優秀な魔法は国のためにある、
などと締め出されてしかるべきだろう。

いつも「エルサの妹」として紹介され、
「アナ」というひとりの人間として紹介されることはない、
などのコンプレックスを描くだけで、
彼女の人生の問題はセットアップできるはずだ。

クリストフをここに使うならば、
「ほんとうはエルサにプロポーズしたいんじゃないの?」
と言ってしまう、
というエピソードも創作できるだろう。

かくして、
平凡な彼女がアイデンティティを掴み取ること
=ダムを決壊させる英雄になること、
という帰結へ走らせることが可能になる。


弟や妹は、幼い頃は兄や姉についてくものだ。
それがいつの頃からか自立して遊ぶようになる。
そこの本質を描けば、
アナをひとりの人間として描けることになっただろう。

もちろん別解もある。各自考えられたい。


そういう意味で、
今回の2は、人間ドラマとしては平凡な薄味だ。
楽曲やキャラクターに引っ張られているだけで、
独自の深みを持っていたわけではない。

枠組みは良くできていただけに、
魂の部分が足りない。

続編の傑作、T2の場合、
「マシンが人間を理解する」という、
前作を超えるテーマ性があったから、
1を超えることが出来た。

アナ雪2は、アナ雪1を超えず、
同等レベルであったということだ。
2は1を超えるべきだ。
続編に期待されることは、
ガワが超えることだけではなく、
中身の深さも超えることだと思う。


各自、深くするとしたら、を考えるのも、
立派な脚本の勉強だ。
posted by おおおかとしひこ at 12:07| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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