2019年12月24日

三人は何を考えているか

初心者は「二人芝居」しか書けないと良く言われる。
二人しか場面にいなくて、
三人以上の場面を書くことができないと。
何故だろう。


二人の場合、
「自分と他人」という軸で考えることが出来る。
「自分はこう考えているが、彼(または彼女)はこう考えている」
ということは、現実でもよく経験することで、
だからこれを書くことが、最低限必要なことは、
「複数の人間のあれこれを描く」物語において、
重要だということは分るだろう。

これが出来ないと、
「自分一人だけが、延々自分の主張を言っている、
強引でわがままで、独りよがりなストーリー」になってしまうことは、
火を見るより明らかである。
自分の主張を言い続け、
「他人」はそれに従い、言うことを聞き続けるからだ。
(もっともそれが正しく合理的なことばかりであれば問題ない。
しかし往々にして、人は独りよがりな正義に陥り、
他人の反発を許さない傾向がある)

これは物語ではない。演説である。
よくある宗教の「ストーリー」が、
悪人に教祖が何かを話し、悪人はそれで改心し、
教祖の言いなりになる、
などがあるが、これは一方的な演説(願望)でしかない。
下手くそな脚本家は、このレベルしか書けない。
自分の要求をそのまま表現し、
他人がそれに従う、というものだ。
これは幼児が母親に要求し、それが叶うという、
非常に幼稚な形をしている。
幼稚とは、逆に、「他人が存在しないこと」だと定義することも出来るだろう。
多くのメアリースーは、この形をしている。
だからメアリースーは幼稚である。

それを抜けると、
「他人と自分」を書けるようになる。
少なくとも自分と異なる原理で、異なる目的の生き物がいて、
交渉したり反発したり喧嘩したり妥協したり、
二人が満足する新しい目的や価値を発見したりすること(止揚)を、
理解して、書けるようになる。
セカイ系がこのレベルでとどまっていることに関しては、過去に批判した。
世界に二人しかいないのは、
恋に恋している状態とたいして変わらない。
それは幸福でもあるが、
ただの「周りが見えていない」状況である。
(セカイ系の多くが、僕と君の恋愛が中心である)

映画は三人称で、それは第三者視点だ。
世の中にペアしかいない訳ではないことは、
世の中をちょっと見ればわかる。
集団行動とは三人以上の行動のことで、
会社や一族や友達は、三人以上で行動するものだ。

現代、三人以上の場面が苦手だという人は増えている。
それはここから議論する、三人以上の場面を想像することに対して現実で経験していない、
ということでもあると思う。
つまりコミュ障は脚本を書くことに向いていない。
もっと友達が多い場面を経験し、
それがどういう状況になっているか、観察しよう。
陽キャになる必要はない。
観察出来て、体験出来て、
頭の中で別のそういう場面を想像出来るようになるだけでよい。

さて。
脚本が下手な人は、
「二人場面ばかり書いてしまう」という傾向がある。
AとBのシーン、次はBとCのシーン、次はAとEのシーン……
などのように、その場面に二人しか出演者がいない状態をずっとつづける傾向である。

これは、
「自分が主張し、他人が従う」独りよがりの場面か、
「自分と他者しかいないセカイ系」
の二通りしか書いていないことになる。
たいてい出来ないからそうなるので、
結局は下手だってことだ。

三人いるとどうなるだろう。
誰かが自分の意見を言ったら、
反対する人が出るが、
それに対しても反対したり賛成したり、
まったく別の意見が出たりするだろう。
ある目的に対して、
それに被る目的を持っている時と、
そうでない時もあるし、
それとまた違う目的が出てくることもある。

つまり、喧嘩(コンフリクト)が三角形になる。
それどころか、
コンフリクトの綱引きが、
三番目の意見によって左右されてしまうことになってしまうこともある。
変な多数決になる場合すらある。
それが正しい意思決定なのか、どうやって確認するのか、
あるいは間違ったままいくのか、
などには色々あると思うが、
そうしたことは、二人場面しか書いていないと、
一生出てくることはない。
三角形になった時点で、
人間関係や意思決定や気持ちのことは、
ダイナミズムを含む複雑系になるわけだ。
(単純な古典力学ですら、
三点を同時に解析的に解くことは出来ない。
二重振り子で検索)

これを出来ない人が、
苦し紛れに、二人場面を書いてしまう。
三人以上がそこにいるのに、
発言者は二人に限られ、
他のものは見ているだけになってしまう、というやつだ。
(極端な「二人以外」の者は、キン肉マンのジェロニモのような、
リアクションや解説するだけのキャラクターになってしまう)


そこに誰がいるのか。
彼または彼女は、何の為にそこに来たのか。
メイン目的の他に、サブ目的があったりすることもある。
また、隠された目的を持っていることもある。
隠されたことは、観客に隠されている場合もあるし、
観客には提示されていて、他の登場人物が知らないだけ、というパターンもある(劇的アイロニー)。

そこで起こったことに対して、
三人以上の彼らは、それぞれどう思うのか。
似たことを思うのか。
それとも違うことを思うのか。
あえて黙って空気に従うのか。
それとも空気を良しとせず、意見を言うのか。

そこで揉めることに対して、
どのように決断するのか。
妥協するのか。全面的に賛成なのか。
反対しつつ従うのか。反対してその場を去るのか。
反対して殺し合うのか。

これらを一々考えなければ、
三人以上の場面など描けない。
そこにあるのは、
自分と他者ではなく、
個々と場の空気、世論である。

自分と他者の場合は、
ふたつまでしか意見がなかった。
しかし三人以上になると、
個々と空気という、登場人物以上の数のことを考えないといけなくなる。
それが出来ない人が、
二人場面しか書けないことになるわけだ。


なんでそこにいる。
あなたどう思う。
どうしたい。
みんなはどうだ。
あなたは架空の司会者である。
みんなを生かそう。
まとまらなくなってきたら、
リーダーを立てよう。
リーダー争いがあったりもする。
分裂もあるだろう。
それはまるで猿の群れだ。
人間を三人称視点で描くことは、猿の群れを描写することと大して変わらない。
なのに面白いのはなぜかというと、感情移入のせいなのだ。

感情移入のある猿の群れ。三人以上の。
それが映画的シナリオの形式であり、
面白いそれを書けなくてはならないわけだ。

(昨今予算が少なくて、三人以上の出演者を出せない場合も増えてきた。
これは物語の自殺である)
posted by おおおかとしひこ at 14:02| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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