2019年12月23日

ニューエイジとSW(「スターウォーズ9」評)

スターウォーズは、70年代に現れた、
「新しい映画」の流れの一本だった。
ニューシネマと当時は呼ばれた流れだ。
若者のことをうまくとらえて、
その気持ちがうまく描かれている、
そういう流れの中にいた。


第一作(のちのエピソード4)の、
セットアップがそうだった。
ルークは、二重に沈む太陽にたそがれる。
「自分は何者なのか、自分は何者かになれるのか」と。

夕陽を見て落ち込む若者は、
英雄でもSFヒーローでもなく、
僕らの等身大の姿だった。
だから感情移入できた。

同時期、ヒッピー文化へと発展する、
ニューエイジの流れがある。

めちゃくちゃ要約すると、
「キリスト教が築いた世界観とは違う世界観がある」
というものだ。
オルターナティブ(今のものではない、代わりの何か)という言葉で理解できる。
あるいは、カウンターカルチャーとも。

それは、キリスト教が説く世界観ではなく、
東洋の世界観(宗教観を含む)や、
キリスト教以前の世界観(十字軍に滅ぼされる前の、
たとえばペルシャの拝火教や、マニ教などの世界観。
錬金術や魔術も含む)
のごった煮であった。
「キリスト教以外の何か」だから、
それはごっちゃにされていた。

輪廻転生(今の世界は輪廻を繰り返す中での修行時期なのだという世界観)、
気功や瞑想による「解脱」や超能力(予言)
などが「ある」とされた。

これらはキリスト教の世界観にはないが、
東洋にはあったものだ。
(実在はおいといて、世界観としてあるかどうかということ)
これらが流行する。

ニューエイジは神智学とも言われ、
のちに精神世界、スピリチュアルやオカルトと呼ばれるものになる。
(精神世界の最も有名な言葉はハルマゲドンで、
これを利用したのがオウム真理教)


「今までにない何か」が、
「これまでの何か」を壊して、
新しい時代をつくるのだと信じられた。
(東洋の瞑想にキノコがつかわれることがあるから、
手軽に神と会う体験を造りだせる、として、LSDが流行った。
これがヒッピーの元である)

スターウォーズ第一作は、
これらのアメリカ史の歴史的文脈の中にいる。
だから、
「若者が世界を変えるとしたら、
これまでの文脈ではなく、
まったく新しい世界観で変えていく」
という流れに乗っかった。

フォースだ。

フォースはオリジナルのように思われがちだが、
実際のところは、気功とほぼ変わらない。
(必ず掌を開いて力を出すのは、ほぼ中国拳法)

ニューエイジで実在と信じられ、
オルターナティブが世界を変えると思われたもののいくつかが、
スターウォーズの世界観に混入している。

生まれ変わりや死後の世界
(キリスト教ではないことになっている。
キリスト教徒は墓場で眠り、復活を待っているだけ)、
幽体離脱、テレパシー、
気功(物理攻撃、治癒)、
思念が現実化すること、
剣術最強(アメリカは銃から歴史が始まった。
それ以前の古代技術が最強という幻想)。

これらはニューエイジで良しとされ、実在していると信じられたものだ。
ほぼフォースとライトセーバーだ。
同時に、
師弟制度は日本のものから、
瞑想がときに闇落ちすること(偏差)から、
ダークサイドという概念になっている。

もう大体これで、スターウォーズの世界観は尽くせる。
もちろん、キリスト教文化圏の人はこれらのものに、
はじめて触れる人が多かっただろう。
だから驚愕し、夢中になった。
「新しい原理をもった若者が、
世界を変える」と。

あれ? 何かに似ているね。
ラノベだねこれ。
「新しい原理」が魔法とか、転生チートとか、
そういうことに置き換えられるだけで、
構造はラノベと同じだね。
70年代、
どうやって成長していいか分からない若者の悩みを救ったのは、
「違う自分が眠っているかもしれない。
それは今までの何かではなく、
新しい原理の何かだ」
という幻想だったのだ。
(これは日本の漫画でもよくあるパターンだ)

沈む夕日に悩みを投影するのは、
ただのリアルな若者だが、
「二重太陽」に悩みを投影する、
「どこか違う自分」があったから、
ルークはみんなの感情移入の対象になったのだ。


僕はスターウォーズ2、3
(のちのエピソード5、6)は、
映画として認めていない。
この「どこか違う若者が、世界を変えていく」
ということの、帰結になっていないからだ。
(そういえば、二十一世紀になって、
「どこか違う若者が、世界を違う原理で救っていく」という映画があったね。
マトリックスだ)


つまり、
スターウォーズは、
中二病である。

ニューエイジは中二病だったのだ。

時を同じくして、日本では学生運動が盛んになる。
若者は何者かになりたいが、何者かになる手段が分らない。
だから、「違う何か」にすがって、
世界を変えていこうとする。日本ではマルクス主義がそれだった。


さて。
新三部作、789はどうであったか。
レイやポーやフィンは、
なんのために戦ったのか。
それが全く分からないまま終わった。

しかし、沈む二重太陽に何者かになりたいと願った若者が、
かつて世界を救った英雄として、
一人前になったことだけは、
完結したようだ。

レイはスカイウォーカーを名乗るが、
何者かにはまったくなっていない。
何故、何をしたのかが、
全然曖昧で、
ルークがした明確さがない。
だから、新三部作は、映画ではない。
ただのおもちゃ箱だ。

ただし、第一作の冒頭を、
きっちりと回収してきた、
ラストシーンだけはちゃんと泣けた。
だから、9作の物語としての完結はしたんだなあ、
と感慨深かった。

でもレイの物語は、
全然おもろなかったぞ。
これは批判の対象になって当然だ。


何者かになりたい、ボクシングで、
となったのがロッキーで、
何者かになりたい、暗殺で、
となったのがタクシードライバーで、
何者かになりたい、銀行強盗で、
となったのが、俺達に明日はないで、
何者かになりたい、バイク旅行で、
となったのが、イージーライダーで、
何者かになりたい、病棟からの脱走で、
となったのが、カッコーの巣の上でで、
何者かになりたい、不思議な力で、
となったのが、スターウォーズだ。

何か違うもので、若者は何者かになりたい。
逆に、それを探すのが、映画のネタを探すことかもしれない。

ルークにあったが、レイにはそれがなかった。
ただの記憶喪失が、貴種流離譚だったのは、
あまりにも平凡と後ろ指を指されるべきだろう。
posted by おおおかとしひこ at 14:46| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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