2019年12月25日

強烈なエピソード

前記事の続きを批評ではなく脚本論として。

つまり、
シナリオとは、
「重要な場面を、出来のいい、記憶に残る、
強烈でオリジナリティのあるエピソードで示す」
べきだ。
それができていないのなら、
シナリオとして失格だ。


構成やプロットが出来たとしても、
実際の場面が、
面白くなく、ただの説明で、
印象に残らない平凡な場面ならば、
それは出来が悪いシナリオだ。

たとえば「主人公がヒロインに恋する」場面がプロットにあるとしたら、
オリジナリティのある、
人に恋する瞬間のエピソードがあるべきだ。

(大昔の、「人が恋に落ちる瞬間を、
初めて見てしまった」はよかったよね。
ハチミツとクローバーだ)

その時の登場人物の心の動きに、
私たち観客が思わず同じになるようなもの。

それが良く出来た場面である。

そしてそれは、
これまで良くあるような平凡なものであってはならない。

物語とは人生であり、
新しい体験こそが人生だ。

ある場面は、新しい経験でなければならない。

中学生や高校生がしょうもない映画でも興奮できるのは、
人生経験や物語経験が少ないからだ。
「これは平凡な場面である」と思わずに、
「はじめて!」と思うから新鮮なのだ。

ここを読んでる人は流石に中高生より経験があると思うので、
中高生を基準にしてはいけない。
自分自身や、映画史を基準に考えるべきだ。

極論するが、
「主人公は恋をして、その人と結ばれる」や、
「主人公は悪を倒す」という同一のプロットに対して、
全く違う場面の、新しいストーリーが作られ続けている、
といっても過言ではない。

新しい恋の落ち方、新しい恋の実り方、
新しい悪、新しい悪の倒し方、新しい正義の味方、
これらについて、
強烈でオリジナリティがあり、
記憶に残る新しい絵的な場面で、
我々の感情を新しく大きく揺さぶるものだけが、
良いストーリーだと言われるだろう。


いかに構成やプロットがしっかり出来ていても、
そもそもこの場面が面白くなければ、
ただの説明書きにすぎない。
映画は体験であり、説明の理解ではない。

それが恐怖の場面なら、
登場人物より観客のほうが恐怖を覚えるべきだ。
それが爆笑の場面なら、
登場人物より観客のほうが爆笑するべきだ。
それが心震える場面なら、
登場人物より観客のほうが心震えるべきだ。

そのオリジナルで強烈な場面を作れるかが、
シナリオの勝負だといえる。


スターウォーズ789のシナリオが全く面白くないのは、
下手くそだからだ。
出落ちの部分はうおおおとなるが、
それは旧作とのリンク場面ばかりで、
なにひとつ789オリジナルではない。

唯一オリジナルでよかった場面は、
8の紫の髪の艦長が犠牲になって突っ込むところかな。
あとレイがフォースに目覚めて岩をどけるところもか。

これは今までないオリジナルの場面だった。
だから記憶に残った。

これらのようなものが、
全シーンに渡ってあるべきで、
少なくとも重要な場面は全てそうあるべきだ。

「出生の秘密を知る」というよくある場面を、
新しくオリジナルな場面に仕立てるなら?
「結婚式」という、以下同。
「殴り合いで決着」という、以下同。
「犯人は○○だ」という、以下同。

シナリオライターの初期の頃は、
「今まで見たよくある場面を、
自分の筆で再現する」ことに興奮を覚えるものだが、
それは「平凡な再現フィルムを作っている」
にすぎないことを自覚することだ。

勿論、一回やってみたかったことをやってみて、
それを血肉にする過程としてのそれならばやるべきだ。

しかし一回やったことはもう通用しない。
あなたは、
それを、「別の方法」で表現しなければならない。

そこでようやく創作のスタートラインに立ったと言えるだろう。


つまり、SW9のシナリオは、
創作のスタートラインに立っていないシナリオだ。

じゃああなたなら、
どうオリジナルな場面に書き直すか?
それを妄想するのも立派な練習だ。

なぜなら、
あなたのシナリオでも、
同じやり方で場面を作っていくことになるからだ。

あるストーリーを表現するために、
構成やプロットがあり、
それを平凡でない、新しくて強烈でオリジナリティな場面にする。
それをやり続けることが、
シナリオを書くということだ。


昔見たものを再現してキャッキャ言ってるのは、
「ごっこ遊び」という。
posted by おおおかとしひこ at 09:52| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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