2019年12月27日

なぜディストピアものがあるのにユートピアものがないのか

すぐに考えればわかることだろう。


ディストピアものに必要なのは、
荒廃したとか、絶望的な世界だ。
それが主人公たちを不幸にしていて、
それを変えようとしたり、脱出しようとするのが、
たいていのストーリーラインになる。

つまり、不幸はじまりだ。
そこから幸福になろうとするのが、
ディストピアものの基本だ。
(その結果、不幸で終る、絶望的なバッドエンドで終るものもあるが)

つまり、「不幸から幸福になろう」とするエネルギーこそがストーリーの原動力だ。

逆ではない。

ユートピアものがストーリーになりにくいのは、
幸福からはじまるからだ。
幸福の絶頂から始まったら、あとは落ちるしかない。
失楽園とか、結局不幸になるだけだ。
もっとも、ユートピアを求めて最後にゴールにたどりつくものや、
ユートピアだと思っていたのは実は地獄だったのだと分る話とかは、
ユートピアを扱いながらもストーリーになりえる。
しかし、ただユートピアで幸せに暮らしました、
だけでは物語にならない。
状態は物語ではない。
ある状態から別の状態への移行が物語である。
ユートピアは他の状態への移行の理由がない。


二次創作やショートストーリーではこの限りではない。
推しと推しがいちゃいちゃするだけの場面を見たいなら、
それはユートピアだろうからだ。
(もちろん、山なし落ちなし意味なしになる)

つまり、ユートピアはストーリーを生まない。
ある意味死だと言える。
逆にいうと、生とは、転落または駆け上がりのことである。

あなたはディストピアを書いてもよい。
ユートピアを書いてもよい。
ただしユートピアは、ストーリーになりづらいから工夫がいるだけのことだ。
posted by おおおかとしひこ at 11:58| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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