2019年12月27日

今何をやっているのか分からなくなること

これは何回議論してもしすぎることはない。
ストーリーが面白いかどうかは、常にこれとの戦いだ。


原作「風魔の小次郎」の聖剣戦争は、これで失敗したと考えられる。
まずは、一般的議論をまとめる。

ストーリーとは目的と、それの成功と失敗を、
背骨として記述される。
「これが実現したらストーリーはおしまい」
という一番大きな目標のことを、
センタークエスチョンという。
正確には、
センタークエスチョンとは、
「その実現は成功するのか?」
というクエスチョンの形で提示される。
それにラストシーンで、「イエス」と答えるまでが、
ストーリーである。

センタークエスチョンは、
とても大きな枠組みで語られることが大きい。
世界は救えるのか?とか、
恋は成就するのか?とか、
犯人は逮捕されるのか?とかだ。

その為に、小さな目標のクリアが、
主人公には必要だ。
それらを小目標という。
門番にあって、宝を得なくてはならないとか、
彼女の誕生日を調べなければならないとか、
手がかりを得るため、その犯人の故郷へ行かなくてはならないとか。
それらをひとつひとつクリアしていくことが、
ストーリーの背骨となる。
大目標をクリアする為に、
ひとつずつ小目標をクリアしていくロードマップとして、
ストーリーは記述できる。

それが面白ければ、
我々の興味は失われないのだろうか?
実はそうではない。

どんな個別では面白いものも、
重ねていくと面白くないことになるのは、
これまでの駄作が示している。
それが、
「これ、なんのためにこうしているんだっけ?」
という疑問である。

どんなに面白い事をやっていても、
たとえば映像では15分もそれで放置されたら、
興味は失われるのである。

例は、「地下鉄のザジ」にみられる。
一つ一つのネタは非常に面白いが、
それが重なってくると、
途端に我々の前のめりの感覚は失われる。
それが、「これ、何のためにやってるんだっけ?」だ。

これを防止することが、
シナリオには必要だ。
しかし、良い説明と悪い説明があるように、
毎回説明や解説が入るのは野暮である。
しかしうまいことやらなくてはならない。

以下のようなことが、
都度見失われるべきではない。

・今何が最終目標なのか
・今何が小目標なのか
・何故それをすることが重要なのか
・それに対して、我々の心はどれくらい賛成なのか(感情移入や夢中)
・これをクリアすると、どういうことになるのか
・これを失敗すると、どういうリスクがあるのか
・いつまでに、何を達成して、何を失敗しない必要があるのか

などなどだ。
勿論、全部が分っていなくてもよい。
いくつかは謎のまま進行させて、
謎だが最終的にはうまいことやっても良い。

これらが途中で失われるとき、
我々の関心はダダ落ちしていく。
「地下鉄のザジ」を見れば、明らかである。
から騒ぎのネタ自体は非常に面白いが、
それだけしかなくなってしまった後半、
騒ぎの規模の大きさが大きくなり、
よりエスカレートしているにも関わらず、
我々の心は離れていく。

予算が大規模になり、
一つ一つの場面に金がかかったスターウォーズ9と同じだ。
たいして面白くない。
それは、予算が大きくなればなるほど、
顕著になる。
「なんのために、これをやっているのだろう」
と一度離れると、
再び心がもどるには、
最初以上の感情移入が必要になってくるからだ。

ふたつ方法があって、
感情移入をうしなわないようにうまくやる、
と、
感情移入が途切れてもまた出来るように、
新しいエピソードでつないでいく、
というやり方だ。
前者より後者の方が普通で、
前者のノンストップは、
計算尽くしでないと難しい。



さて。漫画「風魔の小次郎」聖剣戦争篇だ。

僕はリアルタイムで、
一戦目しか面白くなかった記憶がある。
二戦目、死牙馬戦から心が離れ、
以後の四戦、すべてがつまらなかった。
リアルタイムで聖剣戦争を最後まで読んだものの、
ギリシャ十二神やチャンピオンカーニバルのような、
面白い試合を見たという感覚はなく、
その後の反乱篇は惰性で見ていた。
今回、聖剣戦争を一気に読める機会を得て、
疑問は確信に変わった。
やっぱり聖剣戦争、面白くないぞと。

聖剣を集めるところまでは、確実に面白かった。
期待感があったからだ。
「一体どういうものになるのだろう」が、
期待感として持たれていた。
それは聖剣戦争が謎の存在で、
何を争い、どういうルールで闘うかもわからないまま、
「すごい戦争だ」というイメージ先行だったからだ。

事実、聖地において、
皆は剣を取り、乱戦を始めようとした。
しかし突如体が動かなくなり、
いつもの車田漫画の、一対一へとルールは収斂する。
ここまでが面白くないわけではない。
ああ、成程、そういうことか、
という理解はあった。
(ただ「何故体が動かなくなり、それは誰の仕業なのか」
の疑問は残ることになる。
それはいつか明かされるだろうということはあるが)

第一戦の壮絶な相打ちも、
意外な展開で面白かった。
しかし第二戦、死牙馬がなぜか相打ちになり、
消滅したあたりで、「?」が起こる。

これは毎回相打ちになるパターンなのかと。
じゃあ、何の為に彼らは命を賭けて戦うんだっけ、
という根本が揺らぐ。
どうせ相打ちになって終わりなんだろ、と予想が立ってしまう。
つづく竜魔でも相打ち?になり、
「これ、相打ち続きで何がおもろいんや」
と、期待は失望に変わる。

四千年つづいた聖剣戦争。
それは勝敗を付け、
カオスから聖剣を取り戻し、
地上に平和をもたらすことではないのか?
毎回相打ちで、次の聖剣戦争へ続くことが、
聖剣戦争の結論なのだろうか?

武蔵は「一度しかない人生」を強調する。
ということは、なぜこの人生で決着をつけないのだ?
引き分け、引き分け、引き分け、と引き分け続きが、
バトルの決着としてどんどんテンションが下がっていく。
まだ相打ち、負け、勝ち、相打ちと、
一勝一敗二引き分けで、
小次郎に勝敗の行方が渡されていれば、
「勝ち負けがある勝負で、
勝ちを拾う必要がある」
というルールになり、
「またどうせ引き分けでしょ?」というテンションを、
変えられたと考える。

四引き分け一勝、
という展開が、面白くなかったのかもしれない。
それは、
長いこと、
「これを何の為にやっているのかわからない」
状態が続いたからだろう。
勝ったり負けたりしていれば、
「これは五戦で勝つことが目標である」
ということが分ったのに。
「引き分け続きで、何の意味があるのだ?」
という心が離れていくことも、
回避できたとおもわれる。

死牙馬の試合が期待外れだったとか、
邪火麗のビジュアルが見掛け倒しだったとか、
征嵐剣の能力が不明とか、
十字剣て大地を十字に裂くだけかよとか、
(体を十字に裂けばいいのに)
そういうディテールのがっかりもあるけれど、
それ以上の上位のものに、
僕は退屈を覚えていたのだと、
今ならハッキリと分る。


ストーリーにおける敵は、
退屈である。
それは、
「いま何の為にこれをやってるんだっけ」
から始まる。

もちろん、一分一秒ごとに、
「いまこれをやるのは〇〇の為です」
と説明する必要はない。
今あることから、ある程度予測されて、
それが未来にも適用されることが、
察せられれば良い。
聖剣戦争の退屈は、
毎度毎度引き分けを目指す、
少年漫画らしからぬ流れだったと思う。

これが毎試合短ければ、
まだ助かったかもしれないが、僕には五週でも長かった。
なんで闘っているんだっけ。
世界を救う為に、どうして引き分けになっているんだっけ。
ただでさえ、エフェクトの派手さで勝敗が決まる節がある。
「全試合引き分けにしたら、再び無限の戦いになる。あとは頼む」
などと伊達が死ぬ間際に言い残していれば、
流れは変わったかも知れない。



目の前で起こっていることと、
その上位で起こっていることが、
ストーリーにはある。
聖剣のバトルが前者で、
これはどういう決着をする、何のための闘いなのか、が後者だ。
後者が謎のままの時間が長すぎたのが、
漫画史に残りそうで残らなかった、
聖剣戦争の墜落の原因だとわかった。

ちなみに反乱篇でも、
なぜ小次郎と竜魔が帰還できたのか、
なぜ武蔵は帰還できていないのかは、
明らかになっていなくて醒めた。

続篇でも、なぜ伊達は帰還できたのか、
なぜ死牙馬は帰還できていないのか、
についても明らかにされていなくて醒めた。

それくらい、聖剣戦争は、なぜそれをするのか、
が全部わからないものだった。
「コスモとカオスが相打ち無限を避けるための戦いであり、
勝利した側は全員聖地から帰還できるが、
負けた側は全員聖地で囚われの身になる」
などを一言付け加えるだけで、
色々と想像できるものを。
posted by おおおかとしひこ at 16:20| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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