2019年12月29日

何故主人公は問題を解決できたのか

ストーリーとは問題の解決である。
それをするのは主人公だ。

ところで、解決を考えるときにこう問うてみよう。
何故主人公は問題を解決できたのか?


他人の力をそのまま借りたり、
偶然によって解決するのは反則である。
主人公は主人公自ら、主体的に、
彼または彼女自身の力で解決する。

最初からその力があったらストーリーにならない。
なぜなら、
問題発生、即解決だからだ。
即解決できないからストーリーになるのだ。

つまり主人公は、
初期状態では解決する力はない。

すなわち、
「何故主人公は問題を解決できたのか?」
という問いは、
「どのようにして主人公は、
その問題を解決する力を得たのか?」
に言い換えることができる。

この「解決する力を得るまで」が、
展開部そのものだと考えても良いわけだ。


最も泥臭いやり方が「努力して手に入れる」で、
最もチートなやり方が「ラッキーで」だ。
間に、
「誰か味方をつけることで、
誰かに助けてもらって」などもある。

しかし基本的に受け身は詰まらない。
誰かにただ助けてもらうならメアリースーだ。
それは御都合主義であり、
面白いストーリーとは、
「なんとかして助けてもらうために、
積極的に交渉する」パートや、
「その人と絆を作った結果、
その人に認められて助けられる」パートがあることになる。

最終的には、
問題解決の過半数は主人公が握るべきで、
過半数を他人に委ねるべきではない。
それは主体的とは言わない。
主人公とは問題を解決した張本人の名前に過ぎない。

「自分を主人公にしてはいけない」と僕はよく警告するが、
あなたが大プロジェクトを成功に導いたことのあるリーダーの経験者でない限り、
あなたの発想で主人公を書くと、
「だれか他人に助けてもらうばかりで、
美味しいところだけかすめて行こうとする小物」
になってしまうからだ。

主人公は誰か他人の、偉大な人のことである。


さて、
では、-100から始めて100に至るのだろうか?
それもある。
しかし世界を救うほどの偉大な問題を解決するとき、
「そもそも100あるのだが、
今はなんらかの事情で発揮できない」
というパターンもある。
その障害を取り除けば100出せて、
問題解決めでたしめでたし、のパターンだ。

わかりやすいのはトラウマかな。
それを克服して、かつての力を取り戻すのは、
よく劇的なドラマにスパイスとして入れられている。

これならば、-100から100を捜索する必要はなく、
少し楽に書けると思う。


主人公には最初どの程度の力があるのか?
そもそもあって発揮が封じられているのか?
それともその力自体はなくて、
どこかで手に入れなくてはならないのか?
それはチートか?努力か?
主人公はなにかと引き換えになにかを得るだろうか?
それは成長だろうか?

そして、最終的にその力で解決したとして、
主人公はなにを得たことになるのだろう?(テーマ)

これらのことが整理されない限り、
主人公のストーリーは背骨を持たないだろう。
posted by おおおかとしひこ at 00:30| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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