ストーリーとは問題の解決である。
それをするのは主人公だ。
ところで、解決を考えるときにこう問うてみよう。
何故主人公は問題を解決できたのか?
他人の力をそのまま借りたり、
偶然によって解決するのは反則である。
主人公は主人公自ら、主体的に、
彼または彼女自身の力で解決する。
最初からその力があったらストーリーにならない。
なぜなら、
問題発生、即解決だからだ。
即解決できないからストーリーになるのだ。
つまり主人公は、
初期状態では解決する力はない。
すなわち、
「何故主人公は問題を解決できたのか?」
という問いは、
「どのようにして主人公は、
その問題を解決する力を得たのか?」
に言い換えることができる。
この「解決する力を得るまで」が、
展開部そのものだと考えても良いわけだ。
最も泥臭いやり方が「努力して手に入れる」で、
最もチートなやり方が「ラッキーで」だ。
間に、
「誰か味方をつけることで、
誰かに助けてもらって」などもある。
しかし基本的に受け身は詰まらない。
誰かにただ助けてもらうならメアリースーだ。
それは御都合主義であり、
面白いストーリーとは、
「なんとかして助けてもらうために、
積極的に交渉する」パートや、
「その人と絆を作った結果、
その人に認められて助けられる」パートがあることになる。
最終的には、
問題解決の過半数は主人公が握るべきで、
過半数を他人に委ねるべきではない。
それは主体的とは言わない。
主人公とは問題を解決した張本人の名前に過ぎない。
「自分を主人公にしてはいけない」と僕はよく警告するが、
あなたが大プロジェクトを成功に導いたことのあるリーダーの経験者でない限り、
あなたの発想で主人公を書くと、
「だれか他人に助けてもらうばかりで、
美味しいところだけかすめて行こうとする小物」
になってしまうからだ。
主人公は誰か他人の、偉大な人のことである。
さて、
では、-100から始めて100に至るのだろうか?
それもある。
しかし世界を救うほどの偉大な問題を解決するとき、
「そもそも100あるのだが、
今はなんらかの事情で発揮できない」
というパターンもある。
その障害を取り除けば100出せて、
問題解決めでたしめでたし、のパターンだ。
わかりやすいのはトラウマかな。
それを克服して、かつての力を取り戻すのは、
よく劇的なドラマにスパイスとして入れられている。
これならば、-100から100を捜索する必要はなく、
少し楽に書けると思う。
主人公には最初どの程度の力があるのか?
そもそもあって発揮が封じられているのか?
それともその力自体はなくて、
どこかで手に入れなくてはならないのか?
それはチートか?努力か?
主人公はなにかと引き換えになにかを得るだろうか?
それは成長だろうか?
そして、最終的にその力で解決したとして、
主人公はなにを得たことになるのだろう?(テーマ)
これらのことが整理されない限り、
主人公のストーリーは背骨を持たないだろう。
2019年12月29日
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