何度か書いているが、
僕は第一稿は必ず手書きで書き、
それをタイピングで清書して正式第一稿とする。
(薙刀式はそのための道具づくりだ)
これが、客観性を保つのに役に立っている話。
手書きで書くときは、
砂被りで書く。
言葉の土俵際で、とにかくエネルギーをぶつけて書く。
言葉足らずだし、間違ったことも書くが、
とにかく勢いで盛り盛りと書く。
その日に書いた手書きを、
その日中、あるいは週の終わりなどに、
タイピングして清書化する。
清書といっても、
一字一句正確に写すわけではない。
「お前の言いたいことはこういうことだろ?」
「こうやりたいときはこう書くんだぜ」
などと、
誰か他の人が書いたものを、
曲がっていたら直すつもりでタイピングする。
有能な秘書になるわけだ。
それで大きな構成や設定が変わるわけではないが、
少なくとも読みやすい文にはなる。
内容そのもののリライトはそのあとでやるとして、
まず自分のベストパフォーマンスを文字化しておく。
一度にタイピングでやらない理由は、
この二度手間で客観視するためで、
第一稿をタイピングで書いてしまったら、
筆跡から思いを汲み取れなくなるからだ。
手書きで書いたものには勢いがある。
それを活字化するならば、
という変換作業を冷静にするために、
情熱は情熱のまま書き付けるのである。
そうすると、
情熱と冷静の間の、
いい塩梅が出来上がる仕組みだ。
手書きの執筆は憑依だ。
原始の昔からの巫女と同じことをする。
そこに冷静を挟んではならない。
物語の神様と語るには、
身ひとつを捧げるべきだ。
その交信を、冷徹なタイピングでより活字化するのだ。
右脳と左脳を、役割を変えて二度使う、
みたいなことだろうか。
あまりこのような書き方をする人は聞かない。
しかし僕の作品が独特の間や世界を持っているのだとしたら、
そのような独特のやり方で作られている、
ということは知っとくとどこかで使えるかもね。
(その冷静なタイピングの部分が、
デフォルトのものでは全く満足がいかず、
巫女と同等のことを出来る道具が、
僕はほしくて研究しているわけだが)
2020年01月09日
この記事へのコメント
コメントを書く