2020年01月09日

客観性2

何度か書いているが、
僕は第一稿は必ず手書きで書き、
それをタイピングで清書して正式第一稿とする。
(薙刀式はそのための道具づくりだ)

これが、客観性を保つのに役に立っている話。


手書きで書くときは、
砂被りで書く。
言葉の土俵際で、とにかくエネルギーをぶつけて書く。
言葉足らずだし、間違ったことも書くが、
とにかく勢いで盛り盛りと書く。

その日に書いた手書きを、
その日中、あるいは週の終わりなどに、
タイピングして清書化する。

清書といっても、
一字一句正確に写すわけではない。

「お前の言いたいことはこういうことだろ?」
「こうやりたいときはこう書くんだぜ」
などと、
誰か他の人が書いたものを、
曲がっていたら直すつもりでタイピングする。

有能な秘書になるわけだ。

それで大きな構成や設定が変わるわけではないが、
少なくとも読みやすい文にはなる。

内容そのもののリライトはそのあとでやるとして、
まず自分のベストパフォーマンスを文字化しておく。


一度にタイピングでやらない理由は、
この二度手間で客観視するためで、
第一稿をタイピングで書いてしまったら、
筆跡から思いを汲み取れなくなるからだ。

手書きで書いたものには勢いがある。
それを活字化するならば、
という変換作業を冷静にするために、
情熱は情熱のまま書き付けるのである。

そうすると、
情熱と冷静の間の、
いい塩梅が出来上がる仕組みだ。

手書きの執筆は憑依だ。
原始の昔からの巫女と同じことをする。
そこに冷静を挟んではならない。
物語の神様と語るには、
身ひとつを捧げるべきだ。

その交信を、冷徹なタイピングでより活字化するのだ。

右脳と左脳を、役割を変えて二度使う、
みたいなことだろうか。


あまりこのような書き方をする人は聞かない。
しかし僕の作品が独特の間や世界を持っているのだとしたら、
そのような独特のやり方で作られている、
ということは知っとくとどこかで使えるかもね。

(その冷静なタイピングの部分が、
デフォルトのものでは全く満足がいかず、
巫女と同等のことを出来る道具が、
僕はほしくて研究しているわけだが)
posted by おおおかとしひこ at 00:36| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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