口述筆記は論旨がそれていきやすいことが、
長年の経験で言われていることだ。
つまり主観に陥って、客観性が失われがちということだろう。
これを防ぐのは、対話ではないかと思う。
ある人が何かについて主観的に考える。
主観は最初は客観的であるかも知れないが、
そのうち主観的に曲がって行く。
主観だからね。
それを、他者がおかしいと指摘するのが対話だと思う。
おかしいと明らかに指摘しなくても良い。
質問をするだけでも良いと思う。
それによって、
複数の主観から見た何かがあぶり出される。
あることまではその複数の主観の共通事項になり、
あること以外は暗黙のまだわからない何かになる。
僕は客観というものは、
神や哲学のような絶対的なものだと考えていない。
「複数の主観が、共通して了解した部分」
だと考えている。
その構成員が変われば、
客観の質は変わりえる。
たとえばバカの集団の見えている客観的世界と、
賢い集団の見ている世界は違う。
宗教や文化もすべてそうだと思う。
で。
あなたの主観的なストーリーは、
適宜別人物の対話により、
客観性があぶり出される。
ある人物とある人物の、
共通する認識としてだ。
それは異なる人物であればあるほうが、
より共通の認識を際立たせることが出来る。
極端同士の間の共通事項は、
くっきりとしてわかりやすい。
そして、異なるベクトルの違う人同士が、
また共通認識している部分を確認して、
客観性はより鮮やかになってゆく。
物語において、
コントラストの高い両極端な人物を用意して、
しかも複数のコントラストがある理由が、
まさにこれだと思う。
主観的でしかない世界が、
対話によってどんどん客観性を帯びてくるわけだ。
古来の哲学では、
仏陀やキリストや孔子などでは、
ほとんどが対話形式であったと思う。
対話はつまり、
両極端な何かから、共通認識を作るためにあるのだと、
僕は考えている。
あなたのストーリーが主観的で御都合主義なのは、
主観的だからだ、
と同語反復をしてもしょうがない。
異なる主観との対話による、
異なる部分と共通認識のあぶり出しが、
足りないのではないか。
つまり、言わなくてもわかる黙ってる集団と、
全く理解しあえないただの敵しかいないのではないか。
味方の集団に異なる価値観の者を置き、
敵の集団に価値観の近い者を置くだけで、
対話するときに、
共通部分と異なる部分が立ち上がるだろう。
あなたはそういう意味で、分裂者である。
僕は、分裂した劇団のまとめ役をやる感覚で、
多くの暴れ者を制御している感覚だ。
もし観客の立場とまったく違う人ばかりの対話であったとしたら、
観客の意識とかけ離れていくだろう。
観客の立場に近い者を対話のメンバーにすることは、
よくあるテクニックであることがわかる。
しかし観客の立場と同じ者が全くいなくても、
客観性は保たれることがある。
それぞれはどこか特異ではあるのだが、
それぞれのどこかは、
人類共通の何かがある、
という点において、客観性は大きく外れることはない。
むしろ、
そのようなセットを作るために、
コントラストの強い対話相手を考え出すのである。
難しいことだろうか?
僕は、ボケとツッコミの関係で理解している。
ボケとツッコミは同じ人格ではなく、
両極端である。
その共通認識が、二人の客観だ。
それは対話が進むにつれて、段々とわかってくる。
2020年01月13日
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