2020年01月13日

対話によって客観性は保たれる

口述筆記は論旨がそれていきやすいことが、
長年の経験で言われていることだ。
つまり主観に陥って、客観性が失われがちということだろう。

これを防ぐのは、対話ではないかと思う。


ある人が何かについて主観的に考える。
主観は最初は客観的であるかも知れないが、
そのうち主観的に曲がって行く。
主観だからね。

それを、他者がおかしいと指摘するのが対話だと思う。

おかしいと明らかに指摘しなくても良い。
質問をするだけでも良いと思う。

それによって、
複数の主観から見た何かがあぶり出される。

あることまではその複数の主観の共通事項になり、
あること以外は暗黙のまだわからない何かになる。

僕は客観というものは、
神や哲学のような絶対的なものだと考えていない。
「複数の主観が、共通して了解した部分」
だと考えている。

その構成員が変われば、
客観の質は変わりえる。
たとえばバカの集団の見えている客観的世界と、
賢い集団の見ている世界は違う。
宗教や文化もすべてそうだと思う。


で。

あなたの主観的なストーリーは、
適宜別人物の対話により、
客観性があぶり出される。

ある人物とある人物の、
共通する認識としてだ。

それは異なる人物であればあるほうが、
より共通の認識を際立たせることが出来る。
極端同士の間の共通事項は、
くっきりとしてわかりやすい。

そして、異なるベクトルの違う人同士が、
また共通認識している部分を確認して、
客観性はより鮮やかになってゆく。

物語において、
コントラストの高い両極端な人物を用意して、
しかも複数のコントラストがある理由が、
まさにこれだと思う。

主観的でしかない世界が、
対話によってどんどん客観性を帯びてくるわけだ。



古来の哲学では、
仏陀やキリストや孔子などでは、
ほとんどが対話形式であったと思う。
対話はつまり、
両極端な何かから、共通認識を作るためにあるのだと、
僕は考えている。


あなたのストーリーが主観的で御都合主義なのは、
主観的だからだ、
と同語反復をしてもしょうがない。
異なる主観との対話による、
異なる部分と共通認識のあぶり出しが、
足りないのではないか。

つまり、言わなくてもわかる黙ってる集団と、
全く理解しあえないただの敵しかいないのではないか。
味方の集団に異なる価値観の者を置き、
敵の集団に価値観の近い者を置くだけで、
対話するときに、
共通部分と異なる部分が立ち上がるだろう。

あなたはそういう意味で、分裂者である。
僕は、分裂した劇団のまとめ役をやる感覚で、
多くの暴れ者を制御している感覚だ。


もし観客の立場とまったく違う人ばかりの対話であったとしたら、
観客の意識とかけ離れていくだろう。
観客の立場に近い者を対話のメンバーにすることは、
よくあるテクニックであることがわかる。
しかし観客の立場と同じ者が全くいなくても、
客観性は保たれることがある。

それぞれはどこか特異ではあるのだが、
それぞれのどこかは、
人類共通の何かがある、
という点において、客観性は大きく外れることはない。

むしろ、
そのようなセットを作るために、
コントラストの強い対話相手を考え出すのである。


難しいことだろうか?

僕は、ボケとツッコミの関係で理解している。
ボケとツッコミは同じ人格ではなく、
両極端である。
その共通認識が、二人の客観だ。

それは対話が進むにつれて、段々とわかってくる。
posted by おおおかとしひこ at 20:58| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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