2020年01月23日

シークエンスの終わりはターニングポイントであるべき

何故ストーリーはブツ切れになってしまうのか。
うまく繋いでいないからだと思う。


逆に、ブツ切れになる単位を考える。
それはつまりシークエンスという単位になる。

シークエンスの定義は人によってまちまちだが、
僕は、
「あるテンションなり焦点なりが持つ部分」
を1シークエンスと思うと良いと考えている。
複数シーンだろうが1シーンだろうが構わない。
あるいは、1シーンが3シークエンスで成り立っていても構わないとすら思う。

問題は、
「ひとつのことで集中できる範囲」
だと考えると、議論はわかりやすくなると思う。


ある焦点が発生する。
それにみんな注目し、集中する。
それがシークエンスのはじまりで、
それが途切れるのがシークエンスの終わりである。

たとえば、
「犯人を追跡したが、人混みで見失った」とか、
「彼女とのデートで緊張したが、
やっと終わって別れて帰ってきた」とかだ。

それ自体はそれで構わない。

で、問題は、
話がブツ切れになるか、滑らかに繋がっているかだ。

「犯人を追跡したが、人混みで見失った」
で終わるとしよう。
そのあとのシーンで何を始めるべきか、
おそらく作者が見失う。
そこから自然につながるつぎのシークエンスの、
妥当な判断基準がなくなるからだ。

こうした場合、シークエンスとシークエンスの間に断絶ができる。
そこがつまり、ブツ切れポイントになるわけである。

あるところに集中した。
それが切れた。
また別のところに集中した。
それが切れた。

その繰り返しで、繋がっている感覚が失われ、
ブツ切れ感が強まっていく。
つまり、退屈になる。


これを防ぐために、
ターニングポイントを入れときましょう、
が本題。


「犯人を追跡したが、人混みで見失った」
でシークエンスを終えないことだ。
「犯人を追跡したが、人混みで見失った。
しかし次の朝、犯人の愛人の行方が分かった」
とたとえば終わらせるのだ。

こうすると、次に「愛人を追う」ことへ、
スムーズに焦点がチェンジする。
愛人追跡シークエンスにいつのまにか移っているわけだ。

そしてついにその愛人の証言を引き出したとしよう。
そこでそのシークエンスを終わると、
またブツ切れになってしまう。
同様にたとえば、
「彼女の証言を元に捜査したところ、
見失った犯人の潜伏先の目星がついた」
で終わればよい。

そうすると次のシークエンス、
「潜伏先にバレないように乗り込む」
ということに焦点が移る。

このようにして、連鎖は組むのである。


この連鎖を組まないと、
シークエンス同士がバラバラに見えてしまい、
ブツ切れになってしまう。

犯人を追跡、人混みで見失う。
一方愛人から証言を引き出した。
見失った犯人の潜伏先へ潜入。
と、ブツ切れになる。
この三つが強い因果で結びついている感覚がないからだ。

犯人を追跡、人混みで見失うが、愛人の行方がわかる。
その愛人の証言を引き出し、その犯人の潜伏先に目星がつく。
犯人にバレないように潜伏する。

と、すべてが滑らかに繋がるストーリーになるわけだ。


ここまで繋げればしめたもので、
あとはシークエンス内を洗練させていけば、
自動的に完成度は上がって行く。


ブツ切れの細切れの完成度を上げても、
根本的なブツ切れを解決したわけではない。
このような、基本的技術でブツ切れを回避するのだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:31| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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