漫画「風魔の小次郎」は、
途中まで傑作だったのに、途中で失速し、
どうしようもなくなって終わってしまった、
とてももったいない作品だ。
少しプロとして分析したい。
ひとつには、「死の意味が見えなくなったこと」があると思う。
第一部夜叉篇においては、
死に意味がある。
主君の為に戦う忍者である以上、
主君の正義が忍者の正義だ。
忍者は任務の為に死ぬ。主君の駒として死ぬ。
これは伝統的な忍び観であり、
忍者ものである以上それを適用して、
風魔の小次郎は読むことができる。
項羽が死に、麗羅が死んでも、
それは忍者という宿命としての死であり、
そういうものである、と納得できる。
(ドラマ版はさらに盛り上げるためにドラマを用意しているだけで、
基本的な、主君の為の死という大枠まで変えていない)
ただむなしい死よりは、
その死を生かして欲しい、というのが我々の思いというものだ。
たとえば麗羅はただ死んだだけでは切り捨てすぎるから、
それが小次郎の正義になるように、
ドラマ版ではアレンジしたわけだ。
さて。
聖剣戦争篇ではどうだろう?
最初の、忍者一族たちが次々に死んでいくことに、
何か意味があったか?
驚きはあるが、それはカオスの侵攻であった、
と一点にまとまるところまではいい。
問題はその先だ。
聖剣戦争における死が、何を意味するのか、
よくわからなくなるのである。
小次郎皇帝戦において、
戦士たちの死は、
「コスモとカオスのバランスをとるため」の必然的消滅とされて、
そういうものかと納得したような気がするが、
ではなぜ死ななければならないのか?
がよくわからない。
必死でやった戦いが、勝ちだろうが負けだろうが、どっちだろうが、
結局消滅(死?)であるならば、
必死で戦う意味などないではないか。
大義名分もよくわからない。
「地上をカオスの好きにはさせん」ということは、
当初の一族全滅の光景で想像は出来るが、
それは忍びの一族の話であって、
一般人(たとえば白凰学院の生徒たち)
がどうなるのかまったくわからないところに、
問題があると思う。
つまり、
カオスの目的の絵が見えない。
十本の聖剣を集めて、
アメリカ軍と戦うのだろうか?
警察と一線交えるのだろうか?
超能力のようなもので、政府を操るのだろうか?
聖剣でアメリカ大統領を脅すのだろうか?
良く分らない。
漫画「バキ」では、警察と一戦交える様がえがかれる。
超能力で世界を変えようとした、
「デストロイアンドレボリューション」では、
アメリカ軍との戦いがえがかれる。
もちろんこれらは現代の考え方で、
当時はまだ「アキラ」すら世の中になかった。
ということは、アメリカ軍と戦わずしても、
自衛隊との戦闘、警察との戦闘くらいは、
想像の範囲だったと考えられる。
風魔の小次郎はバンカラ漫画、
つまり不良ものの系譜である。
すなわち、大人が介入できないような、
学生だけの世界で秘密裏に行われている喧嘩が、
バトルのベースである。
どんな凄い喧嘩でも、
マッポがくれば蜘蛛の子を散らすように逃げることが前提だ。
逃げ遅れたやつが拘留所や鑑別所や少年院に入るのだ。
それと忍者漫画との相性が良かっただけだ。
「人知れず戦う」ということができたからだ。
しかし聖剣戦争に至って、
「地上」が何処までの範囲なのか、
急にわからなくなる。
大人たちの介入できない、
不良たちの範囲だろうか?
忍者たちしかいない、
野原や里のことだろうか?
主君の関係がある、現実的な人間たちの住む場所や環境だろうか?
警察や自衛隊のいる法治国家日本だろうか?
アメリカ軍のいる、地球だろうか?
そこがまったくわからないから、
「地上を蹂躙しようとするカオス」
が具体的に何をしようとしているのか、
良く分らないのである。
だからこれと戦って死ぬことに、
なんの価値があるのかわからないのだ。
近々でいえば、SW9があった。
レジスタンスは、なぜファーストオーダーと戦うのか、
その理由があいまいだ。
ファーストオーダーの支配や悪行が一切描かれていないからだ。
圧政に苦しむ庶民や、囚われてストームトルーパーに改造される人々は出てこない。
にもかかわらず、強大な艦隊を持ち(誰がどうやってつくった?)、
沢山の軍隊がいる(どうやって食っている?)。
良く分らない敵に対して戦争を仕掛けている正義の軍団は、
どこに正義があるのかよくわからない。
ただの右翼の街宣車と変わらないように見える。
つまり、目的である。
ストーリーではっきりさせなければいけないのは、
目的である。
カオスは日本政府を、聖剣で乗っ取ろうとしている。
カオスは103流いる忍びを統一支配しようとしている。
カオスは一億人を聖剣で虐殺するつもりである。
なんでもいい。
具体的な、カオスの目的を知りたかったところだ。
(近年の傑作「アベンジャーズ: インフィニティウォー」と「エンドゲーム」
の前後編では、敵サノスの目的は、「人類を半分にすること」
だった。人類が多いから悪いのだ、というエコの人がサノスだ。
しかし「半分減らす」ことは、「大切な人を理不尽に失う」
ということで、それがアベンジャーズ側の正義であり、目的だ。
サノスの正義とアベンジャーズの正義は、
どちらが正しいというわけでもない。
どちらにも感情移入できる)
それに対して、ネロはどう思っているのか。
ジャッカルは、オズは、シュラは。
それぞれは一枚岩ではない。
それぞれに組織の目的に対して、
個人的目的があったはずだ。
それがまったくわからないから、
ストーリーが上滑りしていたのではないか。
だから、何のために死ぬのかわからなくなるのだ。
反乱篇も同様で、
風魔再興は、小次郎たちの目的でもあったはずだ。
それとシモンの、何が違うのか?
シモンについた側の風魔は、なぜそれが正しいと思い、ついていったのか?
小次郎たちは、何のために死を覚悟したのか?
そこがまったくわからないから、
死が軽い。
軽いというより、無意味だ。
霧風の死が、「敵は強い」というかませの為だけに使われている。
小龍の死も同様だ。
マインドコントロールの強さは分った。
じゃあ、なんのために死ぬのかだ。
小次郎サイドの正義も分らなければ、
シモンサイドの正義も分らない。
カオスと同じである。
そして、聖剣戦争で、なぜ死をかけて戦うのか、
そして消滅になんの意味があり、
なぜ引き分け続けなければならないのか、
それらの意味が、
終わってもひとつとして与えられなかったから、
その後のストーリーも面白くないのである。
「輪廻を終わらせるためだった」
という聖剣のラストは面白い。
しかしじゃあ武蔵は、竜魔は、なんのためだったのか。
カオス皇帝は毎回引き分けの無限ループを知らなかったのか?
その辺の全体がまったくわからない。
カオス皇帝は死んだのか。何のために?
逆に。
ストーリーにおいて、死に意味があるべきだ。
なぜなら、現実の死には、
たいして意味がないからだ。
死は人生で最大のショックの一つである。
自分の死も怖いし、大切な人の死もつらい。
通い慣れた店がつぶれる(死)だけで、
僕らはしばらくショックである。
現象としての死は、
ただの消滅だ。
しかし僕らは、それに意味を見出したい。
「〇〇さんが亡くなったって」とニュースを聞くとき、
「え? なんで?」と、
私たちは死因をすぐに知りたがる。
ただ死んだだけでは納得がいかなくて、
「こうこうこういうわけで死んだ」と知りたい。
癌で闘病の末。交通事故、よそ見運転で。
痴情のもつれの末、相手の女が刺した。
なんでもよくて、死因を知りたい。
「だから死んだのか」と。
それは死という理不尽を、
「理解」しようとする、
我々の理性の働きのようなものであると、
僕は考えている。
で、物語だ。
フィクションの物語上の死は、
現実の死以上に、意味があるべきだと思う。
「死んだこいつの思いを胸に」とか、
「これを伝えるために死んだのだ」とか、
なんでもいい。
「運命だったのだ」でもいい。できれば陳腐じゃないほうがいい。
「だから、俺はこうする」という強い立ち上がりに至るための、
死はエネルギーになるのが物語である。
なぜなら、人は死に意味を見出したいからだ。
だから物語は、それに「劇的理由」で答える。
現実以上の、劇的な意味で答えるのが、
物語の存在意義ですらあると僕は考えている。
何故なら、
宗教は物語だからだ。
死というものの意味が分からない時、
人は宗教という物語を発明して、
死の意味を定義しようとした。
物語には、死の意味を語る義務がある。
言い過ぎだろうか。
だって、フィクションの中で、だれかが適当に死んだら、
「あの死に意味あったのか?」
ってみんな言うよね。
つまり、
「意味のある死」を、無意識に求めている、
ということなのだ。
意味がなかったら、あるいは、想定より軽かったら、
納得は決して訪れない。
なぜなら、物語とは、
「この人生には意味がある」と答えを出すためのものだからだ。
で、風魔だ。
夜叉篇までは、死に一定の意味があった。
主君を守るための、忍びの宿命としての意味。
なんという厳しい宿命か、という寂寥と、
表裏一体だったと思う。
しかし聖剣篇になって、
主君や忍びという枷が外れ、
無軌道なカオスとの戦いは、
なんの意味があるのか、
良く分らなくなってしまった。
地上に平和や災いをもたらす聖剣は、
ビームでも放って核爆発を東京に起こすのか?
それすらわからないものだった。
それが聖剣篇の途中で分りたかったし、
終わったあとでもいいから、分りたかった。
小次郎は、だから輪廻を止めたのだ、
すげえな、って思いたかった。
でもただチャンバラしていただけだ。
だって伊達は自ら腹を突き抜いて、
シュラと相打ちしたんだぜ?
その死になんの意味があったんだよ。
最初から、勝っても負けても消滅するなら、
適当にやって終わらせればよかったんだよ。
そこがあいまいなまま終わったのが、
風魔の小次郎が、惜しい部分だと、
僕は考えている。
実は「彼ら」への呼び方が、
編を追うごとに微妙に変化している。
夜叉編: 忍び、忍者
聖剣編: 一族、戦士
反乱編: 風魔(同士討ちの話のため)
聖剣編において、
「忍びは主君のために働き、戦い、死ぬ」は、
「戦士」というよく分からない概念に吸収されてしまう。
戦士はなんのために働き、戦い、死ぬのか。
「戦争」とはいうものの所詮は10人。
このへんのよく分からなさがある。
反乱編においては、「彼ら」は全員風魔である。
そもそもの彼らの主君、北条家は一切出てこなくて、
もはや忍者でもなんでもなくて、
戦士たちの集団、
もっといえば不良の喧嘩、
暴走族のヘッド争いとなんら変わらない。
暴走族のヘッド争いならば、死ぬまではやらないが、
何故か死ぬまでやる。
で、風魔ってなんだっけ、となると、
「その脚力は一日三千里を走り」
で誤魔化されるので、腑に落ちた感じがするだけのこと。
それまでの戦いの意味に落ちているわけではない。
風魔は「風」であるが、
主君北条家に仕える忍びである。
シモンと小次郎の対決のさなかに、
北条姫子(やおじいさま)が割って入ったら、
どのような正義があるのかについて、
僕は妄想を逞しくしている。
死になんの意味があるのか?
それに答えるのが、
その物語内での、物語の義務だと思う。
何の意味もないなら、
生きていても死んでも同じことだ。
生きて何かをなすことの面白さ、凄さを語るのが、
物語ではないだろうか?
2020年01月25日
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