2020年01月25日

死の意味を知りたい

漫画「風魔の小次郎」は、
途中まで傑作だったのに、途中で失速し、
どうしようもなくなって終わってしまった、
とてももったいない作品だ。
少しプロとして分析したい。

ひとつには、「死の意味が見えなくなったこと」があると思う。


第一部夜叉篇においては、
死に意味がある。

主君の為に戦う忍者である以上、
主君の正義が忍者の正義だ。
忍者は任務の為に死ぬ。主君の駒として死ぬ。
これは伝統的な忍び観であり、
忍者ものである以上それを適用して、
風魔の小次郎は読むことができる。

項羽が死に、麗羅が死んでも、
それは忍者という宿命としての死であり、
そういうものである、と納得できる。
(ドラマ版はさらに盛り上げるためにドラマを用意しているだけで、
基本的な、主君の為の死という大枠まで変えていない)

ただむなしい死よりは、
その死を生かして欲しい、というのが我々の思いというものだ。
たとえば麗羅はただ死んだだけでは切り捨てすぎるから、
それが小次郎の正義になるように、
ドラマ版ではアレンジしたわけだ。


さて。
聖剣戦争篇ではどうだろう?
最初の、忍者一族たちが次々に死んでいくことに、
何か意味があったか?
驚きはあるが、それはカオスの侵攻であった、
と一点にまとまるところまではいい。
問題はその先だ。
聖剣戦争における死が、何を意味するのか、
よくわからなくなるのである。

小次郎皇帝戦において、
戦士たちの死は、
「コスモとカオスのバランスをとるため」の必然的消滅とされて、
そういうものかと納得したような気がするが、
ではなぜ死ななければならないのか?
がよくわからない。

必死でやった戦いが、勝ちだろうが負けだろうが、どっちだろうが、
結局消滅(死?)であるならば、
必死で戦う意味などないではないか。

大義名分もよくわからない。
「地上をカオスの好きにはさせん」ということは、
当初の一族全滅の光景で想像は出来るが、
それは忍びの一族の話であって、
一般人(たとえば白凰学院の生徒たち)
がどうなるのかまったくわからないところに、
問題があると思う。

つまり、
カオスの目的の絵が見えない。

十本の聖剣を集めて、
アメリカ軍と戦うのだろうか?
警察と一線交えるのだろうか?
超能力のようなもので、政府を操るのだろうか?
聖剣でアメリカ大統領を脅すのだろうか?
良く分らない。

漫画「バキ」では、警察と一戦交える様がえがかれる。
超能力で世界を変えようとした、
「デストロイアンドレボリューション」では、
アメリカ軍との戦いがえがかれる。

もちろんこれらは現代の考え方で、
当時はまだ「アキラ」すら世の中になかった。
ということは、アメリカ軍と戦わずしても、
自衛隊との戦闘、警察との戦闘くらいは、
想像の範囲だったと考えられる。


風魔の小次郎はバンカラ漫画、
つまり不良ものの系譜である。
すなわち、大人が介入できないような、
学生だけの世界で秘密裏に行われている喧嘩が、
バトルのベースである。
どんな凄い喧嘩でも、
マッポがくれば蜘蛛の子を散らすように逃げることが前提だ。
逃げ遅れたやつが拘留所や鑑別所や少年院に入るのだ。

それと忍者漫画との相性が良かっただけだ。
「人知れず戦う」ということができたからだ。

しかし聖剣戦争に至って、
「地上」が何処までの範囲なのか、
急にわからなくなる。

大人たちの介入できない、
不良たちの範囲だろうか?
忍者たちしかいない、
野原や里のことだろうか?
主君の関係がある、現実的な人間たちの住む場所や環境だろうか?
警察や自衛隊のいる法治国家日本だろうか?
アメリカ軍のいる、地球だろうか?

そこがまったくわからないから、
「地上を蹂躙しようとするカオス」
が具体的に何をしようとしているのか、
良く分らないのである。

だからこれと戦って死ぬことに、
なんの価値があるのかわからないのだ。

近々でいえば、SW9があった。
レジスタンスは、なぜファーストオーダーと戦うのか、
その理由があいまいだ。
ファーストオーダーの支配や悪行が一切描かれていないからだ。

圧政に苦しむ庶民や、囚われてストームトルーパーに改造される人々は出てこない。
にもかかわらず、強大な艦隊を持ち(誰がどうやってつくった?)、
沢山の軍隊がいる(どうやって食っている?)。
良く分らない敵に対して戦争を仕掛けている正義の軍団は、
どこに正義があるのかよくわからない。
ただの右翼の街宣車と変わらないように見える。

つまり、目的である。

ストーリーではっきりさせなければいけないのは、
目的である。

カオスは日本政府を、聖剣で乗っ取ろうとしている。
カオスは103流いる忍びを統一支配しようとしている。
カオスは一億人を聖剣で虐殺するつもりである。
なんでもいい。
具体的な、カオスの目的を知りたかったところだ。

(近年の傑作「アベンジャーズ: インフィニティウォー」と「エンドゲーム」
の前後編では、敵サノスの目的は、「人類を半分にすること」
だった。人類が多いから悪いのだ、というエコの人がサノスだ。
しかし「半分減らす」ことは、「大切な人を理不尽に失う」
ということで、それがアベンジャーズ側の正義であり、目的だ。
サノスの正義とアベンジャーズの正義は、
どちらが正しいというわけでもない。
どちらにも感情移入できる)


それに対して、ネロはどう思っているのか。
ジャッカルは、オズは、シュラは。
それぞれは一枚岩ではない。
それぞれに組織の目的に対して、
個人的目的があったはずだ。

それがまったくわからないから、
ストーリーが上滑りしていたのではないか。

だから、何のために死ぬのかわからなくなるのだ。

反乱篇も同様で、
風魔再興は、小次郎たちの目的でもあったはずだ。
それとシモンの、何が違うのか?
シモンについた側の風魔は、なぜそれが正しいと思い、ついていったのか?
小次郎たちは、何のために死を覚悟したのか?
そこがまったくわからないから、
死が軽い。
軽いというより、無意味だ。

霧風の死が、「敵は強い」というかませの為だけに使われている。
小龍の死も同様だ。
マインドコントロールの強さは分った。
じゃあ、なんのために死ぬのかだ。
小次郎サイドの正義も分らなければ、
シモンサイドの正義も分らない。
カオスと同じである。

そして、聖剣戦争で、なぜ死をかけて戦うのか、
そして消滅になんの意味があり、
なぜ引き分け続けなければならないのか、
それらの意味が、
終わってもひとつとして与えられなかったから、
その後のストーリーも面白くないのである。

「輪廻を終わらせるためだった」
という聖剣のラストは面白い。
しかしじゃあ武蔵は、竜魔は、なんのためだったのか。
カオス皇帝は毎回引き分けの無限ループを知らなかったのか?
その辺の全体がまったくわからない。
カオス皇帝は死んだのか。何のために?


逆に。
ストーリーにおいて、死に意味があるべきだ。


なぜなら、現実の死には、
たいして意味がないからだ。

死は人生で最大のショックの一つである。
自分の死も怖いし、大切な人の死もつらい。
通い慣れた店がつぶれる(死)だけで、
僕らはしばらくショックである。

現象としての死は、
ただの消滅だ。
しかし僕らは、それに意味を見出したい。

「〇〇さんが亡くなったって」とニュースを聞くとき、
「え? なんで?」と、
私たちは死因をすぐに知りたがる。
ただ死んだだけでは納得がいかなくて、
「こうこうこういうわけで死んだ」と知りたい。
癌で闘病の末。交通事故、よそ見運転で。
痴情のもつれの末、相手の女が刺した。
なんでもよくて、死因を知りたい。
「だから死んだのか」と。

それは死という理不尽を、
「理解」しようとする、
我々の理性の働きのようなものであると、
僕は考えている。

で、物語だ。
フィクションの物語上の死は、
現実の死以上に、意味があるべきだと思う。

「死んだこいつの思いを胸に」とか、
「これを伝えるために死んだのだ」とか、
なんでもいい。
「運命だったのだ」でもいい。できれば陳腐じゃないほうがいい。
「だから、俺はこうする」という強い立ち上がりに至るための、
死はエネルギーになるのが物語である。

なぜなら、人は死に意味を見出したいからだ。

だから物語は、それに「劇的理由」で答える。

現実以上の、劇的な意味で答えるのが、
物語の存在意義ですらあると僕は考えている。
何故なら、
宗教は物語だからだ。

死というものの意味が分からない時、
人は宗教という物語を発明して、
死の意味を定義しようとした。
物語には、死の意味を語る義務がある。

言い過ぎだろうか。
だって、フィクションの中で、だれかが適当に死んだら、
「あの死に意味あったのか?」
ってみんな言うよね。
つまり、
「意味のある死」を、無意識に求めている、
ということなのだ。
意味がなかったら、あるいは、想定より軽かったら、
納得は決して訪れない。

なぜなら、物語とは、
「この人生には意味がある」と答えを出すためのものだからだ。



で、風魔だ。

夜叉篇までは、死に一定の意味があった。
主君を守るための、忍びの宿命としての意味。
なんという厳しい宿命か、という寂寥と、
表裏一体だったと思う。

しかし聖剣篇になって、
主君や忍びという枷が外れ、
無軌道なカオスとの戦いは、
なんの意味があるのか、
良く分らなくなってしまった。

地上に平和や災いをもたらす聖剣は、
ビームでも放って核爆発を東京に起こすのか?
それすらわからないものだった。

それが聖剣篇の途中で分りたかったし、
終わったあとでもいいから、分りたかった。

小次郎は、だから輪廻を止めたのだ、
すげえな、って思いたかった。
でもただチャンバラしていただけだ。

だって伊達は自ら腹を突き抜いて、
シュラと相打ちしたんだぜ?
その死になんの意味があったんだよ。
最初から、勝っても負けても消滅するなら、
適当にやって終わらせればよかったんだよ。

そこがあいまいなまま終わったのが、
風魔の小次郎が、惜しい部分だと、
僕は考えている。


実は「彼ら」への呼び方が、
編を追うごとに微妙に変化している。
夜叉編: 忍び、忍者
聖剣編: 一族、戦士
反乱編: 風魔(同士討ちの話のため)

聖剣編において、
「忍びは主君のために働き、戦い、死ぬ」は、
「戦士」というよく分からない概念に吸収されてしまう。
戦士はなんのために働き、戦い、死ぬのか。
「戦争」とはいうものの所詮は10人。
このへんのよく分からなさがある。

反乱編においては、「彼ら」は全員風魔である。
そもそもの彼らの主君、北条家は一切出てこなくて、
もはや忍者でもなんでもなくて、
戦士たちの集団、
もっといえば不良の喧嘩、
暴走族のヘッド争いとなんら変わらない。
暴走族のヘッド争いならば、死ぬまではやらないが、
何故か死ぬまでやる。

で、風魔ってなんだっけ、となると、
「その脚力は一日三千里を走り」
で誤魔化されるので、腑に落ちた感じがするだけのこと。
それまでの戦いの意味に落ちているわけではない。

風魔は「風」であるが、
主君北条家に仕える忍びである。
シモンと小次郎の対決のさなかに、
北条姫子(やおじいさま)が割って入ったら、
どのような正義があるのかについて、
僕は妄想を逞しくしている。



死になんの意味があるのか?
それに答えるのが、
その物語内での、物語の義務だと思う。

何の意味もないなら、
生きていても死んでも同じことだ。
生きて何かをなすことの面白さ、凄さを語るのが、
物語ではないだろうか?
posted by おおおかとしひこ at 13:37| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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