え?これが本になるってことは、みんなこれを知らないってこと?
こんなん基本やん。
「歩くためには、右足の次に左足を出します」
くらい、「考える」ことの基本やで?
この本を読んでそう思わない人には、
強く勧めます。
野球において、ボールの握り方くらい重要。
これらのことが本になるということは、
最早この基本が、
色んなアイデアを生む会社で、
伝承されていないということだと、
逆に僕は危機感を覚えた。
僕はどうやって覚えたんだっけ、
って考えると、
連想や妄想は最初からしてたから、
それを客観的に見る目だとか、
どうひっくり返して見るかとか、
そういう「ほかのやり方」を学んだことが大きい。
そしてそれは、
「先輩も後輩もなく、
朝までタバコの煙の中でやるアイデア会議」
で学んだことだとはっきりと記憶する。
ほかの人の頭の中を見たり、
こういう時どうするのかは、
「一緒に空気を長いこと吸う」しかないと思う。
昭和(といっても平成だが)のやり方は、
「みんなで、出るまで粘る」
「出なかったらまた明日集まり、粘る」だから、
出し方をみんな工夫していた。
とにかく出さないと無間地獄。
出しても詰まらなけりゃ無間地獄。
他人の出した眼を誰か別の人が育てて、形にするのを、
リアルタイムで何万回と見ることになる。
その辛い時間が、
実は黄金タイムだったのだと明らかにわかる。
今、某クソ広告代理店のプランナーは、
この集まりをしていない。
一人でやってきた企画を持ち寄り、
クライアントに通りやすいかどうか議論し、
後日整えることしかしていない。
朝から晩まで、何が面白いのか議論したり、
そもそもそれ詰まらんから面白くなるまでやれや、
ということをしていない。
だから今の広告の多くはクソ化している。
つまらないと直接言われることは大変なショックだが、
「そもそも面白いアイデアは万に一である」
ということさえ、
経験しなければわからない。
つまり、9999回詰まらんと言われ、
1回おもしろいと言われる経験がない。
だから批判を恐れて、会議から若手が逃げる。
逃げるから、この真実を知らないまま育っている。
9999回のクソを捨ててないから、
それがスタンダードになる。
世間では、クソは無視される。
センシティブな取り扱いを間違えたものは炎上する。
成功したものは、アンチが湧く。
批判慣れしていないクソアイデアマンは、
無視されるほうを選ぶ。
「だってクライアントがいいっていったんだもん」と。
こうして、自己承認欲求の相手が、
世間ではなくクライアントになる。
そのクライアントが考えていることがクソだとしても、
批判できず、言いなりになることしかしない。
だから今、広告のほとんどは詰まらない。
クリエイター?
何かお創りになったの?
クライアントのちんこ舐めてるだけなのに?
僕のいる広告業界、映画業界の話だ。
恐らく、メーカーや企画業全般でも起こっていることだと思う。
それは物凄く単純で、
かつておもしろいものを作った時のコツが、
失伝しかかっているからだ。
それを防ぐことは簡単で、
みんなで朝から晩まで無限にやって、
おもしろいものが出来るまで終わらないだけのことだ。
そしてその場で、
詰まらないものは詰まらないといい、
面白いものは面白いといい、
面白くなるまで粘ることだ。
それは、「面白い」ということに対して、
最も誠実な態度だと僕は思う。
詰まらないと言われて傷つき、
残り9998のアイデアを出さなくなる若者なんか、
潰れてしまえ。
どうせ才能がないんだ。
才能とは、
10000回目の「面白い」を出せる力のことだ。
1回目に出ることもあるし、10000回目に出ることもあるし、
3回目に出てたことに5000回目で気づき、
それを育てることだって出来る。
これが失伝しかかっているな、
と、
この本を読んで思った。
若者よ。
会社の先輩がこういうことを教えてくれないなら、
会社にいる意味はない。
会社は、先輩にタダで会える場なのだ。
盗むには家に侵入しないといけないが、
最初から玄関が開いてるのが会社だ。
こういうことを教えてくれない会社には、
いる意味がないとすら思う。
だって一人でやってるのと同じだから。
アイデアは、9999回は面白くない。
ただの人の妄想だから。
それに手足をつけ、自立するまで変形するには、
さまざまなやり方がある。
この本はそれのリストである。
ていうか、大体俺が過去記事のどこかで書いたようなものばかりで、
パクったやろ、とすら思う。笑
いや、とても普遍的なやり方なのだろう。
著者の麻生氏とは一度仕事をしたきりだが、
律儀に著書を贈ってくれるので、
いつも励みになる。
作家にとっての年賀状は、作品だよね。
2020年01月25日
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