2020年01月27日

【薙刀式】筆記用具で文体は変わるか

僕は圧倒的に影響を受ける。
そもそも薙刀式を開発している理由は、
自分の言葉を出力するのに、もっとも馴染む道具を作るためである。


結論から言うと、
影響を受ける派と、全くなんでもいい派がいると思う。

80年代作家たちにワープロが広まり始めた時、
盛んに同じことが議論された。

手書きでないと自分の文章が書けないと主張する人、
いや、ワープロで全然いけるという人、
ワープロの中でも親指シフトなら行けるという人、
ワープロを変えたらダメだったという人、
どれでも変わらない人。

そもそも道具ごときに影響を受けるのは作家ではないという人、
手の延長に鈍い道具を使うべきでないという人。

百家争鳴の結論は出なかった。

つまり、
感性が手や道具に影響を受けない人と、
受ける人がいる、
と僕は考えている。


僕の中心は手書きだ。

しかも、ぺんてる中性ボールペンの青しか使わない。

これが黒や赤になったり、
普通のボールペンやフリクションになったり、
鉛筆になったり、
シャーペンになると、
文体に影響がある。

筆で創作文を書いたことはないが、
おそらく文体は変わるだろう。
(大体書道はコピー文なのは詰まらないよね。
巻物一巻くらい筆で作文する授業があったらいいのに)

手の延長の、それが変われば変わる。
僕は武術のうち武器術はやっていないが、
剣や槍や二丁鎌で、闘い方が変わらないわけがない。

目的はひとつかもしれないが、
そこに至るルートは全然変わると思う。

また、当初目的としていたことが、
ルートによって途中変更することだって全然ある。

青のボールペンと、
2Bの鉛筆で、
僕は同じ文章を書けない。
目的地も、ルートも変わるだろう。


めんめんつさんが、
qwertyといろは坂とフリックで、
文体や結論すら変わるとツイートしていて、
変わる/変わらないと、
ワープロ時代と同じ議論の波紋になっているのが面白い。

文章の完成は多分に主観だから、
結局は主観によるのかも知れない。

僕は普段乗っている自転車と、
友達に借りた自転車では、
目的地までのルートも、目的地すら全然変わると思うけどな。


僕がqwertyローマ字に全く納得がいかないのは、
客観的な不合理はもちろんだが、
主観的に自分の文体を書くのに物凄く苦労するからだ。
逆にいうと、qwertyローマ字の道具に流されて、
自分の文章が変質しがちである。
それが嫌だ。

今僕はこのブログを、
フリックまたは薙刀式で書いていて、
qwertyローマ字よりもフリックのほうが、
普段文字数を書いている。
会社や出先のPCでしかqwertyローマ字は使わないし、
そんなの一ヶ月で5000文字もないと思う。
メールはほとんど使わない。電話か直接で済ます。
それはすべて、
qwertyローマ字が嫌だからだ。


カタナ式を作ったのは、
それでも脚本や小説を書くための、
PCを使う道具が欲しかったからで、
qwertyローマ字では出来ないと思ったからだ。

薙刀式を作ったのは、
カナ入力の方が脳内発声がないと分かり、
薬指や小指を使うのが苦痛とはいえ、
苦しゅうないレベルに落ち着ければ、
自分でもなんとかなるとわかったからである。

僕がこれだけ連接のことを書くのも、
「言葉を指で一筆書きにする感覚」
を大事にしていて、
それは手書きの感覚と同等にしたいからだ。
手書きの筆順と同じという意味ではなく、
たとえ違っていても同等の感覚という意味で、
この辺は多分に主観の領域だと思う。

この、自分の手書きの感覚には、
親指シフトも飛鳥も新下駄も、
まったく合わなかった。
下駄と新JISは少し合った。
月は打鍵数の関係で合わなかった。
薙刀式が、
今のところ一番しっくり来ている。

これは物理キーボードに関しても同じくで、
しょうもないメンブレンやパンタグラフよりも、
hhkbやNiZの方がマシで、
(リアフォは持ってないが、触った感じ良かった)
それよりもminiAxeの方がいい。

薙刀式という論理配列を使ったとしても、
miniAxeで書く場合と、
hhkbで書く場合では、
文体や結論が異なってくるだろう。


つまり僕は、指に影響がありまくる。

触り心地だけでなく、
動かす順番や動かし方が変われば、
思考に影響がある。

そこと思考が分離している人もいる。

恐らくお互いに感覚は共有出来ないと思う。



80年代のワープロ論争は、
デファクトが駆逐してしまった。

手書き派は、デジタル入稿によって絶滅した。
でも僕みたいに、
第一稿は必ず手書きで書き、
デジタルで清書改稿の人はまだ全然いる。

しかしそれをしない限り自分の思考を保てない人で、
デジタルが苦手な人は、
作家になり損ねていると僕は思うのだ。

つまり、デファクトのqwertyローマ字が、
感性の豊かな人を締め出している。

この機会損失が、日本の文化の機会損失になっていると僕は考えている。


だから薙刀式はいいぞばかりでなく、
様々な配列があるんだよ、
配列もキーボードも変えられるんだよ、
それ自体はそんなに苦じゃないよ、
と発信したいと考えているわけだ。


80年代、ワープロが使えなくて作家を廃業した人もいたはずだ。
ボールが投げられなければ野球は出来ないが、
qwertyローマ字が出来なければ作家になれないというのはおかしい。
作家になるには大型免許を取りなさい、
というくらい理不尽な押し付けだと思う。

あえて、
道具に影響を受けない感性なんて、
作家としては鈍いんじゃねえの、
と挑発してみよう。



僕はqwertyローマ字で小説を書くくらいなら、
手書きで左手で書くだろう。
己の情熱や思考に、qwertyローマ字は合っていない。
ついでにword。お前もだ。

現在、qwertyローマ字×wordが、
作家のデファクトスタンダード
(という名の、与えられただけのもの)で、
これ以外を使う人は10%いないと思う。

qwertyローマ字×wordが何をおいても自分に合ってる人なら最高だけど、
そんな人人類の10%いないだろうと思う。

薙刀式×iText×TATEditorが、おれ主観のおススメです。

足を踏まれたら痛いと叫ぼう。
踏んだ側は気づいていない。
posted by おおおかとしひこ at 11:48| Comment(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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